【復刻】道徳的でないことについて

 

 

私は、道徳的であるということの意味について、数年来よく分かっていなかったが、この一年ほどは次のように考えるようになっている。

道徳的であるとは、ある種のことがらに関心があるということだ、と。

 

関心がある、それも好きこのんでというわけではなく。

ある種のことがらについて、無視ができないということである。

別に私が特別な意味で「関心」という言葉を使っているわけではない。考えてみれば、そもそも関心とはそういうものであって、主体の積極的な関与を必ずしも含むわけではない。

(さらに言えば、私は本来関心を持つとは主体の選択的な出来事ではないと思っている。なので、「もっといろんなことに関心を持ちましょう」といったような種類の物言いは全く役立たずだと思っている。そんなことは私の心持ち一つで何とかなることではないだろう、私に関心を持たせたいのであれば私にそれに必要なものを(つまり教養を)与えよ、それが仮初めにも私に何かを言わんとするあなたの仕事ではないのか。できぬというのなら初めからものをいってはならない。人はなんと教えることのできない生き物であろうか!)

 

道徳的であるとは、ある方面での関心の発達を意味する。人は決して人であることから直ちに道徳的になるわけではない。

そういった関心をある程度備えた状態だと、世界に道徳的な出来事が発生するようになる。無関心な人にはそのような出来事は発生しない。

ヘーゲルは、この関心を備えた状態を「第二の自然」と言ったが、これはあまりいい表現ではない。なぜなら、「無関心」であるということは人間の極めて自然な態度だからだ。

 

無関心はいろいろなところで無視されている。

それもそのはず。私が誰かに何かの話をするとき、私は相手が無関心でないと想定している。もしかすると相手の関心の持ち方はこちらが想像していたものとは違っているかもしれないが、そもそも関心がないのであれば話を聞きになど来ないだろう。

本にしたって、読者はその本に関する何かに関心があるということが想定されている。

 

それはそれでよい。

しかし、ひとが人間の無関心という態度について思いを巡らすのを忘れたとき、ひとは独善的になる。道徳においてはそれはとくに顕著である。

 

関心と教養とが関係があるということはすでに言及した。

今の社会はある程度の教養を全ての人間に授けるように設計されている。それは良いとか悪いとかの以前の話である。そのことを良いと言うのはそのシステムに加担している人に限るのであって、じゃあ全く教育システムというものを無くしたら社会はどうなるのか、ということについては、やってみないことには誰も何も言えないから、「二つの社会を比べたら今のほうがいい」というようなことは言えない。

 

「良い」とか「悪い」とかいうのは、あることに関心のある人間にだけ意味を持つ。

無関心であれば、そもそも良いも悪いもない。

世の中では、「関心を持つのは良いことで、無関心であるのは悪いことだ」という一般的な理解があるが、これこそ教育課程の集大成である。この言い方が許容され、ある程度一般に受け入れられるというのは、教養を全ての人間に与えるプロジェクトがある程度成功しているからだろう。

だが、これもしょせん我々から見た場合の「良い」「悪い」であって、それ以上の根拠づけはできないだろう。もちろんこれを否定することもできない。私にもできないし、我々にもできない。私も我々も、この社会でそれなりに生きてきてしまったからだ。だが、この物言いそれ自体(saying in itself, そんなものがあると考えられるとして!)はあくまで我々の社会や教養から中立的であるべきではないだろうか。つまり、この物言いそれ自体は別に必ずしも正しくはないとみなすべきではないだろうか。(ちょうど、リンゴそれ自体が赤くはないとみなすように? おお、そんなものがあると考えられるとして!)

 

「関心は良いもの、無関心は悪いもの」

そういって人は、無関心というものを真面目に考察してこなかったのではなかろうか。自分のうちに無関心を見出さず、また見事な社交的振る舞いによって他者にも悟らせず、完全に知的で良い人間となる。内からも外からも。

そういうのを何と言ったかな。臭いものに蓋。

こうした欺瞞を見出す眼だけは持っておきたいものだと思う。社会はときとして人を教育しすぎてしまうことがある。

 

他人の振る舞いのうちに欺瞞を見出すのはそれとして、もっと重要なことは、多くの人がそれのために欺瞞的な振る舞いをしているところの根源、つまり「無関心は駄目」という考えを無批判に受け入れないことだ。

無関心とは、一つの自然なあるべき姿である。むしろ、何かに関心があるということのほうが「不自然」だ。(繰り返しになるが、この不自然を自然なものに変更することが社会の教育の目的なのである。永井均も何かの倫理学の本でそう言っている。)

私自身についてだって、よく考えてみればいろいろなことについて無関心であろうことが理解される。全ての人も同じであろう。「であろう」というのは、本当に全く完全に無関心なことについてはそもそも我々は意識することすらできないという考えもあるからで、この意味でひとは自分の無関心について自分自身に隠し通すことは容易なのである。

それは悪いだろうか。悪いことであるのかもしれない。しかし、ひとは自分自身の存在について、それが本当に心の底から「悪いものである」と思うことはできない、と思う。つまり、自分の無関心が本当に悪いものであれば、ひとはそれを認識するには至らないだろう、ということだ。ひとは自分の無関心について自分自身に隠し通すことは容易なのである。

 

 

 

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道徳とは、ある種の関心の保持である。

道徳的でない、というのは、その関心を持たないということである。そして、それは自然なことである。

(道徳的でない、と、非道徳的、とはまたちょっとニュアンスが変わってくるので注意。)

 

第二の自然に住み慣れた人、あるいは社会によって適切に教育されたが決して教育されすぎることはなかった人、俗にいう良い人、この人たちは「道徳的無関心」つまり「道徳的でない」ことがそもそも人間の自然な態度であるということを忘れがちである。(なんとなれば、この自然さこそが「第一の」自然であるというのに!)

このことを忘れるとひとはひどいことを言い出す。小泉義之だったか、why be moral問題についての本の中で(申し遅れましたが、道徳的であることそれ自体についての諸問は倫理学ではwhy be moral問題と呼ばれているのです)「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いは「残酷な問いである」と言った。

文脈は正確には覚えていないが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは発されること自体が残酷であるということに質問者は気づかなければならない、というようなことを言っていた。

こういうことを言うのである、俗にいう良い人は。

つまり、道徳的無関心にとって、道徳的関心は本来言うべき言葉を持たない。するとどうなるか。道徳的関心は無関心を口汚く罵りだすのだ。それしかできないから。しかし、それはあなた、無道徳的ではないかもしれないけど、非道徳的なのではないですか。

(ちなみに、小泉さんはじめこうした問題を論じる人が、本来的に道徳的事象に関心がある道徳的な人間であるかどうかは、実はまだ分からない。その人が何をしゃべっているかということによっては分からない。その人自身にとってさえもきっとよく分からないだろう。関心とはそういうもので、つまり、その働きはあるものを主題として持ち上げることにあるのだから、関心それ自体は舞台の真ん中に立つという性格のものじゃないのだ。

「私は○○に関心があります」、こういったことはあまり言いすぎないほうがいい。それはときによっては、あなたが自分の関心がこうあってほしいという願望を込めた祈りになっていないだろうか。嫌がる彼を無理やり舞台上に立たせようとしていないだろうか。彼は怒って痕跡もなく去って行ってしまうかもしれない。)

 

 

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他人との関心のずれは大変な心労である。

一つ例を取れば、コミュニケーションを積極的に取りたがらない人がいる、と感じたとする。その人はあなたとは関心の持ち方が違うのであって、あなたが大事だと思っていることを、つまり挨拶をするとかそういったことを、どうでもいいというか場合によっては気にしたことすらないということだってありうる。

コミュ障め、アホめと罵りたくなるかもしれない。まぁ別に罵ってもいいとは思うけれども、それでも大事なことは、別に相手の態度もそれはそれで自然なものであるということ、あるべき姿の一つであるということ、そう認識することである。

怒りを抑えることを目的としてこう言っているのではない。正しく認識すること自体が大事なことであり、善いことだから言っているのである。

怒りを抑えるのも、罵らないのも、特段善いことだとは思わない。私はやや教育されすぎた側の人間だから、「良い人々」がここぞとばかりに良いことを言おうとするときこそ、ここぞとばかりにそれを否定するのである。

 

まぁ、それもバランスである。良い人がいればそれに従わぬ人もいる。何かは何かの掌の上。よくできたものだ。

よくできているのは何か。社会か、それ以上のなにかか。

よくできてはいないものだ。と言ってみる。言ってみるだけでは何も変わらぬ。

より高いものを、つまり真理を、目指さねばならぬ。それは私の、ひとの本性か、それ以上のなにかか。

 

2018.06.04