【復刻】友は死を待つ

 

 

 

「私にとって、すでにお別れをした人たちの死とは何か?

 また、彼らにとって私の死とは何か?」

 

 

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これだけでもうこの記事を終えても構わないくらいだと思われる。というのも、疑問を提出することも一つの大事な仕事だからだ。

むしろ、下手糞な答えを示す方が見た目にもだらしなく、内容としても劣ったものになってしまう。だから、昨今の人々がとりあえず何かを語るにはオチが必要だ、結論を示すことが肝要だ、と考えているとすれば(考えているように見えるのだけど)、彼らはそのどうでもいい迷信によって様々な事柄について考える機会を奪われていることだろう。オチのつかなさそうな話は彼らの語りから除外されてしまうからだ。あるいは、もともと何も考えたくない人の言い訳として機能しているのかもしれない。

 

それはともかくとして、私としては、主に記事の長さの問題から、ここで終わらせるわけにはいかないのである。一つにつきだいたい3000字から4000字の間で収まっているので、今回もそのくらいにしておかないとなんとなく落ち着かない。

(この理由のほうがくだらないのではないか? いかにも、これは大変くだらない理由である。しかし害がない。害のないくだらなさは私は好きである。積極的に生活に取り入れていきたい。)

 

 

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「死とは、本当の別れである。本当の別れとは、永遠の別れである」

 

否。

それは違うぞ、ジョナサン・ジョースター

 

「本当の」ということで、何が言いたいのか、説明してみたまえ。

私が問題にしているのは、もう既にお別れした人の死である。かつての友人とか、一時期を一緒に過ごした人間の、しかし今はもうそばにはいない人間の、死である。

もうお別れは済ませてある人間と、もう一回、今度は本当の意味で、別れるなどということはない。お別れはすべて本物で、偽物はそもそもお別れではない。

 

「永遠の」、こっちが君の言いたいことかね、ジョジョ

なるほど、お別れがすべて永遠のお別れであると言うことには無理がある。しかし、ほとんどの場合、お別れは永遠のものである。そうでないとするならば、私はかなりの高確率で再び百合が浜高校3年3組の教室に当時のメンバーたちと一緒に戻ることになるはずだが、そしてそれなりの期間を再び一緒に過ごすことになるはずだが、それこそありえないことだ。

 

それに、999歩譲って、死が「本当の別れ」「永遠の別れ」であることを認めたとしよう。

では、本当の別れとは、永遠の別れとは、何なのだね? 君はただ死を詩的に言い換えただけではないかね。それで何かを語った気になっているだけではないかね。(だが、それを判定するのはもちろん私ではない。それをするのは、もちろん、君の誠実な魂だけである。自分の言葉遣いのだらしなさにノーを突き付けられる君自身の誠実さを喜び給え。)

 

 

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死んだ人とはもう会えないが、死んでいなければまた会える可能性がある。

この「可能性」が大事なのだろうか。それも違うと思う。

 

会うのは好きだ。再会はなかなか良いものだ。一つ不満があるとすれば、わざわざ飲み屋でご飯とアルコールとを伴って再会しなければならないという社会的合意については私は理解ができない。飲食店の陰謀か、バレンタインデーみたいなものか。

 

ともかく、死んでいたらこういう再会の可能性は全くないわけだが、まだ死んでいなければ再会の可能性はある。

しかし、再会の可能性があることが何であるのか。死との関連という相において、我々は自分に問いかけてみなければならない。

つまり、あの人が死んだと聞かされる、すると私のうちにある感覚が生まれる。この感覚は、その人ともう会うことができなくなったという、再会の可能性の喪失について何事か主張しているのだろうか。

そう感じる人もあるかもしれない。だが私はこれは全く違うと思う。というのも、私はその人と再び会うことをこれまで特に強く望んでいなかったし、考えてもいなかった。「無意識のうちにまだ会えるという可能性を感じていたのだよ、君は」そう言ってくる人があるかもしれない。これについては私は何も言えない。だって、無意識だからね。意識に上らないことだからね。むしろあなた、あなたのその無意識論の根拠は何ですか。あなたの意識は無意識をも意識する意識なんですか。

 

再会をまだ考えているのであれば、それが重要な意味を持って自分に考えられるのであれば、あなたがたはお別れしたとは言えないだろう。

「なんとなくだけど、どうせまた会うだろうな」、程度の再会を考えるのは、お別れした人の間でも起こることだ。

でも会ってどうする? 近況報告、時間つぶし、ワンナイトラブ、その他。繰り返すが私はそういうのは好きだ。そういうのこそ人生の彩である。でもそれは人生が有意味なもので彩られるということではなく、その逆のことだ、無意味なもので染め上げられているということだ。

だから、別にもう会えなくてもいいと思う。もう会わないだろうなという人もたくさんいる。

 

あの人が死んだよ、と聞いて私が神妙になるのは、私にある感情が生じて熱くなるのは、このどうでもいいものの可能性に思いを巡らせるからではない。それ以上の出来事だからだ。

 

 

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一つには、その人の死をどう受け取っていいのか分からない、という分からなさが貴重なのである。

安直でもなんでもともかく結論が欲しい人、オチを求める人、その人たちが「気持ち悪い」といって嫌がる不安定さが、その人の死によってもたらされる。

これは大変に貴重なもので、どういう心持ちでいることが正しいのか、いやどんな心持ちでいても間違いなのではないか、そういう心境はそのままにしておかねばならない。やっぱり自然林のほうが美しい。この比喩はちょっと意味が分からないな。ともかくそういうの大事だから、まじで。

安直に答えを求めるべきではなく、誰かを信じるべきでもなく、ただ正しく悩みのなかに存在するべきだ。といって「正しく悩むこと」を希求するのではなくて、どうすればいいのかを考えること、そして失敗すること、それが結果としては正しく悩むことになる。

 

偏見を捨てよ。自己規定を疑え。

あなたは悲しむべきだとか、この感情は苦しみだとか考えるかもしれない。それは感情に問うてみなければわからない。本当はあなたはその人の死なんか少ししか悲しくないかもしれない、それ以外の気持ちのほうが大きいかもしれない、そしてそれには名前がまだないかもしれない。別に本当は悲しくないのに悲しいのだと思い込まなくたって良い。人が死んでも悲しくなければ悲しまなければよい。感謝の念しかなければむしろ感謝すればよい。

そういうのは感情それ自身に聞いてみましょう。感情の場合は、まず強さがあり、ついで内容があり、最後に名前が来る。名前は最後だ。名前は最後までつかないかもしれない。

 

余談だが、死とは本来悲しみで特徴づけられるものだろうか。

死は、生きているうちに与えることのできないものを与える。死ぬことだけによって与えられるようなものを与える。それがとても貴重なものだと思われたなら、死が悲しいだけのものではありえない。

ある人には悲しみしか与えないとしても、その悲しみすらとても貴重なものである。「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ」(坂口安吾、『堕落論』p.152)。

 

私がもしここで何か非難されたら、私は憤りかねない。私が死に対する誠実さ、神妙さを欠いていると言われるならば、貴様らこそ、と言い返さずにはいられないだろう。

貴様らこそ、ただ悲しむフリをしてすべてを終わらせるつもりか。ただカナシイカナシイと繰り返して(まるで仕事あがりにダルイダルイ言うみたいに)、人生の上辺表層のその他もろもろと同じカテゴリーに捨て入れるつもりか。自分が受け取ったものの重さを(それは決してつまらないものではない)真摯に見極めようとすることもなく、ただただ忌まわしいもの、嫌なものとして扱うつもりなのか。

 

ただ悲しまれるだけでは、死んだ甲斐がないというものだ。

 

私が死んだら、悲しんでほしいとは思わない。だが、私の死があなたに何を差し出したか、そいつの強さを、そいつの中身を、できたら少しでもよく見てほしいと思う。できるだけ誠実な仕方で。そいつの名前は別になんだってよい。なんだってよいけれど、たぶん、悲しみではないでしょう? 私が死んで悲しみを抱く人がそんなにいるとは思えない。私も、死なれて悲しくなる人がそんなにいないから。でも、何かは差し出されるだろうし、私にしてもこれまでそうだった。それらは、お別れしているにもかかわらず、私の人生にとっての意味のあるイベントだった。

 

 

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私とあなたは、お別れしたらあとは死ぬしかないのね。

 

お別れした人たちの間には、多分もう、ほとんどの場合、死ぬ以外のイベントは待っていない。

私は皆さんにとってあとはただ死ぬだけの人。皆さんは私にとってあとはただ死ぬだけの人。

 

お別れしたときから、私にとってあなたは私の観念の中にしかいない。

まだ何度も喋れるけど、いつでも喋れるけど、観念の中で、に限られている。

あなたが現実のほうで死んでしまえば、死んでしまったことを私が知れば、観念の中のあなたも死んでしまう。それでも、やはりまだいつでも喋れるんだけどね。

なにも変わっていないようで大きく変わっている。何が、どう、変わってしまうのか、それは結局分からないのだけど。つまり、あなたの死をどう受け取ればいいのかは結局分からないのだけど。

 

お別れした人の死の意味はここにあると思う。心の中のその人の存在が、なんか、変わる。

お別れの性質の違い(「本当の」あるいは「永遠の」)がその人の死の意味ではない。再会の可能性の消失がその死の価値ではない。

あなたが私の心の中で死人になることが、その意味だ。

そういわれても、ねぇ、私も自分で何を言っているのだか全然わからないが、しかしもうこれ以上喋れもしないので、ここでお終い。

 

(今日は最終的な答えにたどり着かないままだ。問題を投げかけたままだ。不安定だと感じるだろうか。だが、この不安定こそ現実的だ、そして必然的だ。不安定を生きよう。)

 

 

 

 

 

 

なんて読みにくい記事だろうか。陳謝。

 

 

2018.06.05