【復刻】がんばる論

 

 

がんばらない

 

 

高校の頃から「がんばる」という言葉が嫌いであった。

 

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がんばるってどういうことだろうか。

 

単純に何かに精力的に打ち込むということとは違うニュアンスがある。

仮に達成したいことがあって、それのために喜んで努力をするというような場合、がんばるとは言わない。いや言うけれども、それでよければ誰だって簡単にがんばれるわけで、その言葉のうちにある人間的労力に全く言及していない。猿とか犬だって餌をとるためにいろんな工夫をすることはあるわけだから、誰だってどんな生き物だってがんばれることになってしまう。それはたとえば努力をしているという言葉では表現されるだろうけども、別にがんばっているわけではない。

あるいは、社会的に求められている行動、たとえば勉強とか部活の練習とか就労とか、それらをやることが単純に楽しくて一生懸命にやっている場合。これも、ある意味では間違いなくがんばっているといえるわけだが、同じく、楽しいんだから誰だってやるのが当たり前なのである。何も褒められるところはない。いや褒めていいんだけども、苦労を忍びましたねっていうニュアンスではない。

 

こういった迷いのなさ、ポジティブ一色で塗り固められた行動様式だけが、がんばるということではない。

これだけががんばるなのだったら、「がんばろうね」なんて全く無意味な発言である。言われるまでもなく誰だって「がんばる」わけだから。

(「がんばろうね」が無意味であるという主張はかなりの程度正しいんだけれども。この問題は後述、するかも)

 

人生のどの瞬間にも何か一つはやっていたら楽しいことがある、そしてそれはたとえ自分がツラい状況であってもアクセス可能である、と仮定するのでなければ、人生には何をやっても楽しくない瞬間がありうるということになる。

そして現に人生はそうである。ツラい時というのがある。

こういう時、冬眠ができれば便利である。冬眠というのはもちろん比喩だけど、ツラい時期が去るまで、何もせずに過ごすことができたら、楽しくもやりがいもない代わりに別段ツラくもならないような仕方で生活を継続していくことができたら、便利である。

しかしこれもできない時というのがある。つまり、本当の意味でツラい時というのがある。

生活が持続している以上、ヒトは何かをやっていなきゃいけないわけだが、何をやっても悪いほうにしか行かない時というのがある。

 

そういう時間を生きていくことを、がんばると言う。そういう「がんばる」の側面がある。

 

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ここまでは多くの人が同意するかもしれない。

「がんばる」に単に前向きに努力していくというだけでなく、ツラい時にも何事かを為していくという意味もあるということを、大体の人は認めるだろう。

 

そのうえで、多くの人はがんばることを何か良いことだと捉えている。「がんばって」と平気で言う。「がんばろうね」と簡単に言う。

だから私は「がんばる」が嫌いなのだ。

 

がんばってと言われても、私はがんばりたくない。だってツラいのだもの。

がんばろうね、それも断る。ツラいのだもの。

みんなでがんばりましょうなんて、どんな集団だ、と思う。ツラいことが好きだというのは、マゾとかそういう話ではない。「ツラい」の意味をちゃんと理解していないか、完全な狂人であるかのどちらかである。(ここでいう「完全な狂人」は、思考可能性のうちには含まれるけれども存在の可能性を持たない、つまり自己矛盾した概念であると理解されるべきだろう。要するに、そんな狂人は存在しえない。)

 

私は「がんばる」のネガティブサイドに比重を置きすぎている、と言われれば、そうかもしれない。

しかし私は「がんばる」の本当の意味はこっちだと思っている。繰り返すけれども、楽しいこととか必要に迫られたことならば、誰だってごく当たり前にやるし、猿だって犬だって雉だってやるわけだ。

そういった行動は意思してやっているわけではない。人間的努力だとは認められない。

私も好きなことは自分から進んでやってきたし、いくらか成果をあげたりもしたが、それで「がんばってるね」と言われると違和感があった。私は、その時は別にがんばっていなかったので。

(犬と猿と雉はKibidangoに洗脳されて行為したので、やはり彼らの意思で行為したのではない。だからやっぱりがんばったのではない。しょせん動物である。)

 

世間の多数派が「がんばる」の意味についてどのようなことを考えているのか(そもそも考えているのか)知らないが、ネガティブサイドがその本来の意味であるという点については我々は合意したということにしよう。

そのうえでやはり、いや、だからこそと言うべきか、がんばるのはいいことで大事なことだと考える人がいる。だから「がんばろうね」とか「がんばって」とか言う。

 

このような人は、ツラい人というのをちゃんと見たことがあるのだろうか。自分がちゃんとツラくなったことがあるのだろうか。

ファッション感覚のツラい、通俗的概念としてのツラいしか知らないのではないか。

ちゃんとツラい人というのは、がんばるしかないのだ。がんばる以外の選択肢がない。いやあるかもしれないけれども、その主体からアクセス可能ではない。だから結局、がんばるしかない。

そういう人にがんばってと言う。がんばろうねと言う。お前は誰だよ。

 

それは倫理的な越権である。がんばろうとかがんばってと言う資格は誰にもない。

ツラい人を前にして、たったの一語発声するだけで何かができると思うのは勘違いである。不道徳な勘違いである。ツラい人に対しては、なにもできない。これが倫理的世界の現実である。

何かできるとすれば、何もできないことに対して自分がツラくなることだけだろうが、あなたがツラくなったからといって誰かが救われるわけでもないので、よほどの間柄でない限り、ただの欺瞞・偽善だと言われるのがオチである。

 

2011年以降、よく「がんばろう東北」という言葉を聞いたが、これ以上なにを「がんばろう」なのか。もう一度震度7が来たりすればさらにがんばらざるを得ない状況にはなるだろうが、そういうことが望みなのか。

「がんばろう」というのはこのような仕方でちぐはぐなのである。

より少なくがんばるだけで済めばそれに越したことはないのに、がんばることそれ自体がいいことであるかのように思っている人々のせいで、「もうがんばりたくないんです」と言えなくなる。「いつまでもがんばってね」と言われる。いつまでもツラい人たちでいることになる。

 

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ここまでの私の主張は極めて簡潔だ。

「がんばるってのは別にいいことじゃないんだから、がんばらせようとしなくていいじゃない」というもの。

 

私の前提が正しいならば、この考えはもっともだ。

だが、がんばるのは良いこと、素晴らしいことだという考えは根強く存在しているような気がする。

どうなのだろうか、がんばるというのは素晴らしいことか。美しいことか。

最後にこの点について。

 

悲しみに耐える姿が美しかったり、それは強い風に吹かれる可憐な花になぞらえられるようなものであったり、主人公が悲惨な過去を乗り越えて何事かを成し遂げたり、そういったことは社会が作り出した「美しい道徳」の一断片である。

社会が作り出したといっても、誰かが意図的に作ったわけではないので、社会の中で自然発生したものであるわけだが。

これは全く悲惨さ、ツラさ、絶望を理解していない。これらに関する通俗的概念は絶望的なほど精度が低い。

 

ツラい状況にいる人、悲惨の中にあってがんばっている人は美しいか、魅力的か。

私の乏しい経験だけをもとにして言うと、このような人は全く魅力的じゃない。私が自分でツラかった時期は、今振り返っても私の最も愚かで、精彩に欠け、どうしようもない人間だった時期である。

別に孤独だったわけではないけれど、それは私が嘘をついている証拠にはならない。魅力のある人のところには人が集まり、魅力のない人のところからは去っていく、そういう単純な話ではないというだけのことだ。

 

そもそも、ツラいからがんばっている人のどこに美しさを見出すことができるのか。

強い風に吹かれる可憐な花も、大海原に漕ぎ出してゆく旅人も、がんばっている人のメタファーではない。それらは、「力があって自分でもそのことを知っているので、存分にその理機能を発揮しようとしている人」のメタファーである。花は風が強いから仕方なく抵抗しているのだし、自分が十分に風に抵抗できることを知っている。旅人は、詳しい事情は知らないが、おそらくその人が漕ぎ出したくてやっているのだろう。

がんばっている人のメタファーとしてはもっとずっと無力な存在が選ばれるべきで、たとえば踏みつぶされた花とか旅人の水死体とかのほうがまだ適切である。どちらも、かつては輝かしい未来のためにその力を発揮していたであろう面影があるけれども、もはや美しくはない。

 

がんばる姿が美しいと、そう思っていたい気持ちは理解できなくもない。自分がいざツラくなった時、慰めが何もないのは恐ろしく感じるからだ。

不幸に群がる虫を見て(実際は「不幸だということにされた何か」に群がるわけだが)、世間は本当に不幸が好きなのだなぁと思ったものだ。そのうえで、がんばれと言う、あなたは美しいよと言う。感動しましたと言う。本当は自分を慰めているに過ぎない。

 

しかし本当にまずいのは、がんばっている姿は美しいんだ、と考えることじゃない。美しくないから、あいつは別にがんばってなんかいないんだ、と考えることだ。

がんばっている人に手を差し伸べる義務はないけれど、がんばっている人をがんばっていると認めないのは決して正しい態度ではない。

 

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要するに、「がんばる」という言葉が惹起する倫理的問題についての、世間の態度が嫌いなのだ。

だから一時期、がんばると言わないように努力をしてみたことがあった。十代最後の数年くらいの間。

 

最近はどうなのかと言うと、普通に「がんばってね」とか「がんばろう」とか言っている。

なぜなのか。

これらを使わないのがあまりに不便だからだ。

もちろん心の中ではいつでも弁明の用意はできている。「私、がんばるって言葉嫌いなんだけど」とか言われたら即座に、「いや、今のは慣用的に使われているだけの特に意味のないがんばるだから」と言い訳する用意はある。まだ役に立ったことはないが。

 

心を込めて言わなければよい。いちいち言葉の意味を大事にしなければよい。不真面目になればよい。

そうすれば、「がんばる」は極めて便利な言葉だ。日本語に独自の(かは知らないが)無意味で大事な言葉である。

ある種の真面目さよりも実生活を優先する。プラグマティズムとかそういうことでもなく、理論的な態度でなしにとりあえず生きてみる。

 

そう、とりあえず生きてみる。

 

 

2018.09.25