【復刻】擬音語が多めの現代思想入門

 

 

 

現代思想とか言ってしまうと、こう、ズシンとくる重みのあるもののように見受けられる。すごいすごい、重い重い、大仰だねぇ、そういうリアクションの本当の意味は、はぁー、めんどくさそうだねぇ、ということである。

 

現代思想というと、当代流行の思想、ということになろうか。そもそも時代と思想とは結びついていなければならないものなのか? いかにも、結びついていなければならない。

思想は思想、世の中は世の中、スパッと分かれております、と思うのは思想を特別視する向きのある人だけで、ジワリジワリと厄介なのはそれが世間の人だけにとどまらず思想を職業にしようとしている人のなかにもいるように思われるということなのだが、現実には思想が世間から独立して一人でスタスタ方向を決めていってしまうということはない。思想はもちろん世間の上しか歩けない。

思想というのが世間とピッタリ寄り添っているので、それは誰にとっても関係のあるものである。「高尚なことをお口になさるのね、ふふ、私にはとんと分かりませんわ」と宣言してみたって、それで思想と縁を切れるわけではない。ザーッとした例えでボヤァっと言えば、世間が地面なら思想は空ですよね、そうも言えるかもしれませんよね。空なんて高くて私には関係ありませんわ、と言いたくなっても実際考えてみるとそうはいかない。「どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である」(奥村晃作

思想なんて関係ないというか、関係していたくない、そういう思いもぼんやり漂っている気がする。それもそのはず、そういう気配が実は現代の思想なのである。オエー、やめてくれそういう包み込むような、優しさの押し付けのような態度は。そうなっても仕方がない。これに関していえば思想のほうが悪い。ごめんなさいってずっと言ってくる奴がしゃらくさいのと同様である。ごめんはいらないのだ、ただ目の前から消えてほしいのだ、それと同じで、自分が悪いのですとかそういうのいいから、とにかくもう思想って言うのだけやめてくれ。

まぁ、そんな風に思う人がすすんでこの文章を読んでいるはずはないんだけど。

 

現代流行の思想なんていうと、ピカピカーっと人の目に留まるような何物か、という感じがあるけれども、そんなものがこの時代にあるんでしょうか。ない。明らかにない。だが、これが何を意味しているのかというと、「現代に思想がない」ということではなくて、「ピカピカっとしているのだけが時代の思想だ」という考えが違っているのだ。

それはさながら、「ニュートン以後しばらくは物理学者はいませんでした」というようなものだ。いたのだよ、もはや私たちが名前を憶えていないというだけで、いや現代の私たちだけでなく同時代の人もほとんど名前を知らなかっただろうが、無数に物理学者はいたのだ。ニュートンは如何にもピカピカだが、それだけがその時代の物理学者ではないし、それじゃ他にどういうのがいたのかというと、とても把握しきれないくらい多様なのがいたのだ。思想というのも同じく、各時代にあってわちゃっとして複雑であり、とてもそれを全部言葉にするなんて試みるべくもない。

フランス革命の時代に自由が叫ばれたのなんて、思想史的には典型的なキラキラの時代・場所なのだが、それが内容的にも素晴らしかったり深かったり、ゴゴゴゴゴ的な存在感があるというわけではない。ただキラキラしていて話のタネにしやすいからみんなそうしているに過ぎない。

フランス革命時代の影響を受けていわゆるドイツ観念論ヘーゲルシェリングフィヒテたちの哲学が発展したので、そしてこれらの人はやはりカーンと聳え立つ思想界の巨塔であるので、キラキラであるということは少なくとも内容的に豊かであることの証拠なのではないか、という疑問がありうる。わたくし的にズサァっと回答をすると、そもそもその時代の思想が豊かであったという前提が疑わしい。別にそんなことなかったんじゃないの、と思っている。というより、豊かさが何を意味するのであれ、人知れず豊かであった思想はいくらでもあったと思う。元来、人間が考えることというのはそんなに変わらない。それを示す何よりの証拠は、わたしがこういうことを言ってあなたがそれを理解しているということのうちに見て取れる。オリジナルなんてないのであって、思想だって再生産、何度も何度も繰り返し繰り返し生れて消えていくうちにほんの少しの変化がもぞっと生じる、そのくらいのものである。私が考えてこう書いていることというのは、全部4500年前に縄文人たちが火を囲んで石器を研ぎながら話し合ったことなのだ。(そうすると、もはや「私が考えたこと」という表現も正確ではない? いやいや、それは違って、そもそも「考える」とは「なんかコチャコチャ繰り回して思考を紡ぎだす」ことではなく、「思考に私をして語らしめる」こと、なのです。よりよく考える人というのはよりよく思考に通り過ぎてもらうことのできる人。「もっと考えろ」というセリフがことごとく功を奏しないのもこのためで、考えるというのは自発的能力の行使ではないからなのです。)

だから、時代の思想がキラキラしているかどうかと、豊かさに溢れているかどうかは別の話。キラキラしてるのは、ただみんながとっつきやすいからいろいろ言われやすいのだ、そういう話。

 

ここまでの主張をギュンっとまとめると、現代にも現代思想なるものありにけり、そは必ずしもあからさまにそれと人に認められるようなものにあらず、そういうことになる。

では現代の思想の内容はどのようなものか。

現代の思想は、極めて成熟している。歴史的な思想を追っかけている者の目からしてみれば、感動的なほどである。極めて高い水準の判断能力を有し、あらゆる主張に完全にコミットする前に疑いを向けることができている。

そして信じるに足るものを失っている。それが現代だ(ドンッ)。

 

つまり、無気力や無関心、こうした、昔ならばただ「個人の美徳の欠如」として問題になることさえなかったような話が、現代では思想の話として取り上げられる準備が整いつつあるのだ。それがどうして思想的主題になるかというと、この話が幸福論や宗教論やある意味での形而上学に関わってごちゃごちゃしたのがべべべべべっと広がっているからなのだ。宗教論といっても、キリスト教とか仏教とかの個別的な話題はあまり現代では振るわない。そこも成熟の為せる業、なんと宗教性そのものがパブリックに取り上げられるようになるのである。すごいっ。神は死んだと言うけれども宗教性という話題が枯渇することはまずありえない。少なくとも、私たちが相互に理解できるレベルの思想においては、宗教性の次元で語るべきことが語り尽くされるということはまずない。それ以上のレベルだと分からないが、それ以上のレベルの話は定義から私たちに理解できないものなので、まさしく「無縁」である。それについて言うべきことは何もない。

 

信じるものがない、ということは、それはまた大変な時代ですなぁ。いやいや、別に大した問題ではない。それで生きる上で困るということもない。だから、少し先の未来だったら現代のこのような様相は一つのあり方として当たり前のものとして理解されていることだろう。

ヘーゲルおじさんはよいことを言っていて、「現実的なものは理性的である」という。これを曲解すると、現実こそが必然性の根源なのだ、と言える。つまり、現実というのは常に必然的な在り方をしていて、思考が必然的であるのはそれに沿うかぎりでのことなのだ、ということ。あれ、「必然的」なんて言ってなくない? だから「曲解」だと断ってあるのだ。

現代のこの「信じるに足るを失った」あり方もまた必然的。正しい現代思想というのは(人はそうそう正しくないことを考えたりはできないのだけど)この現代を把握する。未来はその思想から現代を知ることになる。

そういう未来を準備するのが現代思想のお仕事なのだと思うわけです。

 

 

2018.11.24