【復刻】教える

 

 

「教える」ことは可能か否か。

多くの教師は、教えることは可能だと思っている。というより、教えることができないならば自分たちのいる意味がなくなってしまうので困る、困るので、教えることは可能だということになってもらわなければいけないと思っている。

この教師の考える理屈はそれほど自明ではなくて、教えることができないならば教師のいる意味がないなんていうことは全然ない。だから、「教えることが可能かどうか」という問題に対して否定的な答えが出てきても、教師はそんなに狼狽する必要はない。狼狽する必要はないので、教えることに関心のある人々は、「教えることは可能か」という問題をちゃんと取り扱ってよいと思うのである。

ある意味で、教えることは可能だ。ある教室で50分授業を受けた後の生徒は、sin2x = 2sinx*cosxを言えるようになって教室から出てくる。しかし、この教室のなかで何が起こったのか。その50分のうちのどの瞬間に、教師は「教え」たのか。もしかしたら、そんな瞬間はないのかもしれない。「教える」などということは、一切起こっていないのかもしれない。

 

 

私たちが知性によって知る、普遍的な事柄については、外的に音声を発する話者にではなく、内的に精神そのものの前に座している「真理」に相談する。真理に相談するよう私たちを促すのは、たいていは言葉である。だが教えるのは、相談された当の真理である。

 

アウグスティヌス『教師論』

 

 

私たちは、一度自分で考えたことのあることしか考えることができない。ウィトゲンシュタインがそんなことを言っていた。

これまで考えたことのあることしか考えることができないなら、人はどうやって新しい知識を手に入れることができるのか。

なんだか、プラトンの「想起説」が説得力のあるものに思えてくる。想起説というのは、知識の獲得は、魂が本来持っていた正しい知識を思い出すことなのだという考え方。魂の不死を前提しているので、現在では全く聞く価値がないと思う人もいるかも知れないが、プラトンほどの人が真面目に主張していることなので、どう転んでもそれなりに価値があるとみなされるべきであるような気がする(実際は、プラトンほどの人でなくても、「真面目に」主張された考えにはいつも聞く価値がある)。

一般的には、新しい知識は、知られる前にはまだ心の外にあって、教えられたり知らされることで心の中に入ってくるものと暗黙のうちにみなされている。想起説やアウグスティヌスの言葉は、このような理解の仕方に疑問を投げかけることができる。

新しい知識が、外からやってきて心のなかに入ってくるというのは、分かるようで分からない。どうやって入ってくるのか。教師はメス的なもので生徒の心をいったん切開して、そこに知識を放り込むことはできない。生徒の側でなにか自発的な動きがなければならないような感じがする。そこで、どうすればこの「生徒の自発的な心の動き」を引き出せるかを考える教師。こう考えるのは仕方がないとしても、この「自発的」が何らか誘発可能なものだと考えていなければ、こういう発想にはならない。もしこの自発性が完全に自律的で、内的な動因でしか動かないとしたら、そもそもどうやっても誘発することはできないので、どうやって生徒の心を自発的に働かせるかなんてことは考えても意味がないことになる。

しかし現実では、やはり教育が成り立っている。ここでは教師が生徒の心の自発的な動きを引き出せたかどうかは全く問題にならない。なぜなら、そもそも生徒の心はアクティブで、ほとんどの場合はじめから自発的に動いているからだ。

 

想起説にしろ、アウグスティヌスにしろ、新しい知識を得るためには何か「自分以上のもの」との関係のなかに入ることが必要だと考えている。「真理」は、アウグスティヌス的には神の御言葉であるし、想起説では正しい知識を持っている永遠の魂はこの肉体に捉われた魂よりも明らかに優れたものだ。

教えるために必要となる、この「自己以上のもの」。これになれなければ、「教えた」ことにはならない、と考える人がいるのではないか。そんなものには、あなたは、なれない。そういう意味で「教え」ようとすると、あなたは何も教えることができない。

突き詰めて考えると、教えることは、相手にとってのこの「偉大なる他者」となることによってしか実現できないように思われるかもしれない。そうすると、誰も何も教えることはできない、ただ教えることができるという勘違いをすることができるだけだ。しかし現実には人間は人間に教えているのだ。それで十分だと思う。

 

 

2018.09.07