【復刻】娯楽について本気出して考えてみた

 

娯楽というものが一体何なのかについて考えている。

 

娯楽に時間を費やしすぎているように思われるのである。このように思われるとき、娯楽というのはその効用以上に払う対価が大きいように感じられているものだ。

だが一般に、娯楽に時間を費やすのはよいことだ。楽しさはそれ自体で追求されるべき価値を持つ。もちろん、娯楽に時間を費やしすぎるということはあり得る。

しかし、娯楽に対して時間的なことを問題にするようになるとき、大体その人はその娯楽に飽きているとか、娯楽としてやるべきことをそんなに持っていないという場合が多いのではないか。私はそのように感じる。

 

いつも見ているサイトを見たり、ウェブで漫画を見たり、YouTubeを見たりするのは、ほかにエネルギーを使わないで時間を過ごす手段を持っていないか、持っていてもこれらよりアクセスしにくいかのどちらかだ。たとえば散歩に行くとか、ぼーっと座って壁の一点を見つめるなんてのは、アクセスのしやすさでいえばこれ以上た易いものはないように思われるが、実際すぐにそういう行動に入らないところを見ると思われているほどアクセスしやすいわけではないということが分かる。

と同時に、ウェブで時間をつぶすなら散歩に行ったほうが幸せなのでは、という考えも自分のなかにある。それでも手元の娯楽に手が伸びるのは「習慣」の力か。それならもはやそれは娯楽とは言えないようなものではないか。ただの習慣です。まとめサイト見て、そこから何をすべきということもない。

 

「習慣」に関する本を読んで何か学習するべきか。一般に、本を読むことの最大の効用は、意識のリソースをその主題に大きく割くことになることだと言われている、私によれば。瞑想の本を読んだら呼吸に注意を払うようになるし、思考の働きに関する本なら自分の思考が実際に書かれている通りに働いているように見える箇所を探し出してしまう。つまり、本はある意味で内容よりもその存在が有用だというのはこのあたりのことを言っているのだ。著者はそういう気持ちではないだろうが、そこに何を書こうが結局本が読者にもたらすものは内容よりも存在に依存している。だから、習慣に関する本を読まなくても習慣について意識的になっていれば同じことなのである。ついでに、本を読めば読んでいるときはそのテーマについて力強く意識的になるが、時間とともにその態度を失っていくので、大事なことは本を読んでいる段階で「この内容は自然に忘却するに任せていいやつ」か「覚えておきたいやつ」か意思決定をしておくことである。

 

いつもの娯楽をいつも通りに呼び出して、いつも通りに時間を消費する。これが習慣の力だというのはその通りだろうが、それも一つの要素、他の要素はどのようであろうか。

無益な娯楽と自分を責める傾向とが関連しているのではないか。まず前提として、無益な娯楽はそれが無益であることを私たちは完全によく理解しているものと考える。それで、自分の本来の作業が理想通りに進まないとき、その責めは第一に時間と関連して生起する。時間を無駄にしてしまった、もっとよい時間の使い方が可能だった。それで、無益な娯楽に走るのではないか。もっとあからさまに時間を無駄にする余裕が私にはあるのだと自分に言い聞かせているわけだ。たしかに私にはもっと時間を無駄にする余裕がある。しかし、それだけのことを言うためにわざわざこのようなやり方を取るのは回りくどい。その回りくどさが本当の嫌気を引き起こす。

自分の作業が理想通りに進まないのは当然であって、理想が簡単に実現するようだとそれは魔法である。ここで「思い通りに進まない」という言い方をしなかったのは、多くの人は作業以前にその進行具合を「思い描く」ことがないから。思い通りに進むためには、事前に思っておく必要がある。それが多くの場合欠落している。だから思い通りも何もない。

時間を無駄にしたって、その余裕があるならば別に悪いことではないのだ。このような時間の過ごし方、あるいは私たちがいかに時間に「過ごされる」か、この辺の知恵は「脳化社会」の人間には本当に欠落している。と養老孟子は言っている。

 

いろいろ書いたけれど、というほど書いてもいないけれど、こうして自己反省してみて至る結論は大体同じで、まぁ今のままでもいいか、というものなのだから、反省というものは全く役に立たないものである。この役に立たなさで生きていけるのだから、不便なものである。

 

 

2019.06.25