【復刻】哲学1 思考なんてないさ

 

 

普通に思われているような「思考」が果たして本当にあるかどうかという話は、性質抜きにして実在し続ける「実体」というものが果たしてあるのかどうかという話と似ている。

たとえばBerkeleyが「人知原理論」で展開しているような話は、実際はこの世界に素朴に思われているような実体なんてものはないんだよなぁと説得する話なのだが、その構図はほとんど同じように思考というものに対してもむけることができるように思える。(ちなみにBerkeleyが「素朴な実体概念」を相手取っていたというのは嘘で、本当は当時の哲学者が想定していたような実体概念が仮想敵だったわけだが、今日ではそれはやはり通俗的なとか素朴なとかと言ったほうがふさわしい。)

 

 

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普通の人はどこか適当なところで判断を切り上げる。だから自分がどういう概念を使って何を話しているのか自分でも理解していない。自分が理解していないということも理解していない。だからそれでよいと思っている。

一方、思想家と言われるような人たちは、どこか適当なところで判断を切り上げる。だから自分がどういう概念を使って何を話しているのか自分でも理解していない。自分が理解していないということも理解していない。それについてはよいと思っているのだが、一般の人が多くの場合自分よりもずっと手前のところで早々に判断を切り上げているのだけは気になる。そういうところは指摘してやらないと、少なくとももう三歩くらいは進めますよと教えてやらないと気が済まない。時には使命感のようなものさえ感じる。

思想家というのは大体そういうふうにして自分のことを棚に上げてはお節介を焼く生き物である。(もちろんこれがお節介以上のものであることも確かで、彼らの指導を聞き得れると、簡単に言うと、賢くなれる側面はある。しかし、周知のように、賢いこと自体は別に善いことでも悪いことでもないので、結局それすらもどうでもいいことだともいえる。賢さは善さでも悪さでもない、善悪というのはそういう外的な性質ではないから。また賢さは、これからは特に必要ですらない、というのもあなたよりも別の誰かのほうが、別の誰かよりも機械のほうがずっとずっと賢いからである。)

 

「思考」というのはどういうものか。まず確かだろうと思われることは、私がそれを知らないということ。さらに、私のイメージする一般人は私より散歩くらい手前でそれを理解しようとすることを諦めている。

ここに勝手にお節介を焼いていけば、私はもしかするともう一歩くらいなんかの拍子に理解が深まるかもしれない。だから私は勝手に「思考」の通俗的概念を相手取って語り始めることにする。ちょうどBerkeleyがやったのと同じように。

 

 

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さて、「思考」。

思考というのは心の働き。一般に、心の働きは身体の働きよりも強い意味で私に属している、私の自由になる、と思われている。身体の働きもかなり私のもので私の自由だという気がするが、少し考えてみると、私がそうしようと望んだって100mを11秒で走れるわけではないし、恐ろしい状況にいるときに自由に震えを止めたり、焦っているときに自由に呼吸を落ち着けたりできるわけではない。大腸の働きにいたっては私の考えともはや何の関連もない。そういうわけだから、身体の働きは必ずしも全部私の自由になるというわけでもないようだ。

しかし、そもそもなんで身体の働きが自由になると考えられるのか。それは、私が身体の働きを心で考えることができるからだ。逆に考えることのできない大腸の働きなんかは自由にはならない。少なくとも、私が自由に行うことができる行為というのは、私がそのように考えることもできるものだ。自由の根源というのは、ここにある。考えるという、いわば心の働きにある。

なぜ、ある仕方で身体を動かすことを考えて、実際にそのように動かしたら自由に動かしたことになるのだろうか。「考える」から「動かす」までの間に行為内容に変更があったら、つまり何らかの障害物などによって思った通りに行為できなければ、私は自由には行為できなかった、と考える。つまり、「考える」~「動かす」間に発生する出来事は、自由を妨げる障害物として理解されるのだ。

心身二元論的な図式を説明のために使わせてもらうと、「考える」から「動かす」への移行は「精神」から「身体」への移行だ。ところで精神も身体も私なのだけれど、自由の根源はどちらにあるのだろうか。もし身体のほうに自由の根源があるのであれば、「考える」~「動かす」の間に身体が自由に介入してよい。むしろ、精神の言いなりにならずに積極的に介入して行為内容を変更することこそが自由な身体の務めであるはずだ。精神がデザインした通りの行動しかとらないようなら、身体のほうには自由があるとは言えない、むしろただの精神の下僕である。

しかし、すでに言ったように、「考える」~「動かす」間に何かが介入すると、私たちはそれを障害物だと認識する。むしろ自由を阻害するものだと思われる。身体がこの過程で介入すれば、私たちは自由に行為したとは思わないだろう。むしろ何かに邪魔をされたと感じるはずだ。だから、私に属するもののうち、自由の根拠となるのは身体ではない、精神のほうだ。

 

この意味で、精神、そしてその働きである思考は、自由であると考えられている、一般的には。

(一応注意しておくが、上で長々しゃべったことは私の考えなどでは全然なく、通俗的思考・行為・自由概念を明確に表明しただけである。このような丁寧な説明はぜひとも随所で行われることが望ましい。にも拘らず、私の趣味でないという理由で以下では行われない。)

 

私が問題にしたいのはこの「思考の自由」、または「自由な思考」という通俗的概念である。

通俗的概念というのは相手取るのが厄介なしろもので、誰かに帰属させるということが単純にはできない。一般の人に簡単に帰属させるわけにはいかない。というのも、通俗的概念は通俗的ではあるが概念である以上、自己発展するものであり、私たちがその発展に付き合って観察することもできる。おかしなところは修正し、また一部に真理を見出すこともできる。概念である以上、それは観念的だが具体的な(観念世界において具体的な)対象として扱うことができる。しかし実際に人が持つ観念は、自由とか思考とかいう抽象的なものに限らずあらゆる観念は、どこかで適当に判断が切り上げられているということがその本質としてある。具体的なものではないのだ。適当に切り上げられていて、突き詰められることがないがゆえにそれはまだ生かされている、生存を許されている。

 

 

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また脱線してしまったようだ。通俗的な概念は誰かが実際に持っているとか言われるものではないので、「お前は誰に向かって言っているのか」と言われかねないけれども、ともかく「思考の自由」というもの、それが問題であって、私の言いたいことはこうである、つまり、自由な思考なんてないぞ、と。

 

私たちの思考は別に自由なのではない。無知なだけだ。どう無知なのかというと、自分の依って立つところを知らないのだ。

何物にも依って立つことがなくても、思考は自分一人で歩みを進めることができる、というのが「自由な思考」のモデル。(「そうなのか?」と思う人がいるかもしれない。詳しく見ていくと、やっぱり僕は「自由な思考」なんて信じてなかったわ、と感じる人もいるだろう。だから概念は簡単に人に帰属するわけにはいかないのだ。ちなみに理想的な思想家というものは概念を帰属することができるような人、具体的な概念を頭の中で発展させきっている人だとみなすこともできるが、当然そんな人間はこの世に一人たりともいない。)

 

自分で歩みを進めるといっても、どっかには立たなきゃいかん。どっかには存在してなきゃならない。身体の場合だって、地面があってそこに立つというところから、さまざまな行為を始めることができるのだし、もし地面と重力をはく奪されても、無重力でもともかく身体がなけりゃ話にならない。

思考の場合でいうと、何について考えるか、思考の対象が自身の存在のためには必要である。思考の対象・材料は外の世界から持ってこられなければいけない。思考はこの点で自分以外のものに依存せざるを得ないわけだが、だから思考は自立していない、自由じゃないなどと言うのは、あまりにも厳しすぎるだろう。

 

「自由な思考」が求めるのは、対象を自給自足するということではなく、思考の対象が与えられたとき、それについて自由に考えることができるということだ。

つまり、スタート地点は与えられてよい、そこからどう思考を展開していくかを思考が自ら決定するところに思考の自由はあるのだ、というわけだ。

しかし、材料が与えられたところから完全に好き勝手なものを作り出すということはできそうにない。普通、ゴーヤと卵とベーコンと豆腐が与えられたらゴーヤチャンプルーを出力するしかない。まさかここからペペロンチーノを作り出すわけにはいかないだろう。思考の場合はそれが許されるのだろうか? そうはいかないだろう。県知事選挙について考えることで火星まで有人飛行する方法を思いつくということはない。こんなでたらめな自由は存在しない。

 

存在しないが、これがだめなら何が自由なのだろう。

「自分の思い通りに考えるということ」、これが思考の自由だと言われるかもしれない。思い通りに? 誰の? 「思い通り」を思い描いているのは何者か。それが自分であるなら、私は思い通りを思い描くことと、その通りに思考することの二つのことをこなしていることになる。これは経験に反する。私の思考は二つに分裂していない。また、それが自分でないなら、自分でない何者かの思った通りに思考することが自由である、と主張することになる。上司やその他の言いなりになるのと大して変わらない。

 

「思考を意識するということが自由である」。どうして意識するだけで自由であることになるのか。何か嫌なことがあったとき、私はそれを強く意識してしまうけれども、私はその観念と自由に付き合っているというよりはむしろそれに捉われていると言ったほうが実感を伴う。

 

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このあたりで「自由な思考」という通俗的観念は分裂し始め、よくわからなくなってくる。

「制約がないということが自由だ」→いや、制約はある。

「自分の思い通りに考えることが自由だ」→「思い通り」を思う自分なんていない。

「意識だ」→いや、そうとも限らない。

これらの間違った考えは、それぞれ部分的な真理を持ってはいるが、それはまた他日。

ともかく、一般に思われている「思考」という概念を多少なり修復不可能な形に崩すことができれば、私は満足なのである。

 

思考は無知であり、自分がどうやって進むことができているのかを知らない。もしかすると本当に自分の力で進んでいるのかもしれない、いやきっとそうだろう、だから私たちの思考は、いやもっと言えば私たちは、自由なのだ。

そして、やはり自分の力で進んでいるとも思えないので、きっと思考は見えない条件に規定されているに違いないから、私たちは自由ではない。

 

2018.10.14