【復刻】文化論2 creativityやoriginalityに関して

 

知識というのは一般的である。一般的というのは、「誰にだってわかる」ということだ。

原理的には誰にだってわかるものだけが知識と呼ばれうるので、私にしか分からないような何かは「狂気」として分類される。

そもそも私というのが一般的なのである。私にしか所有されえないようなものは頭のなかにも外にも存在しない。

先ほど狂気といったもの、それはフィクションでしかない。そんなものがあるとすればそれを狂気と呼ぼう、だがそんなものがないことは私たちみんなが暗に前提していることである。上で言ったのはそういう意味である。

ツチノコは存在するのか? ツチノコは存在しない。なぜなら、そんな奴は存在しないという全員合意の前提がツチノコのイメージの一部をなしているからだ。ツチノコっぽい奴が見つかったとき、「以後それをツチノコと呼ぶことにしよう」というツチノコイメージの変化を一度経由しないことには、ツチノコは存在するようにはならない。つまり、「いま私たちがツチノコとして考えている奴」は決して存在しない、が、「私たちが今ツチノコという言葉のもとに考えているわけではないツチノコっぽい奴」なら存在しうる。そして後者がいつの間にか「ツチノコ」になっているという事態はあり得る。

フィクションとして想定されたものは、まさにフィクションですよというそのアナウンスのゆえに存在が不可能になる。ツチノコしかり、ユニコーンしかり。そして狂気と呼んだもの、つまり「私だけの考え」「私だけの感性」「私だけの魅力」etc.もフィクションなので、現実には存在しない。

(なお、存在しないというのはそれ以上でもそれ以下でもなく、存在しないということしか述べていない。人はフィクションで生きている。その意味なおありや否や、というと、あるに決まっているのである。フィクションならそれについて語ることも全く意味がないのだと考える人は性急でいけない。しかし実はそういう人間を頭の中で勝手に想定した私が性急なのではなかろうか。)

 

もしかしたら人がそうあって欲しいと思うような個性・独自性は、精神的なもののうちにはない。

精神的なものは完全に一般的である。

精神的なものの原理は簡略化して合一すること、そのように働くのが精神にとって真理であり善だからである。逸脱すること、個性的になることは単に精神が自身の本質を誤解することから生じるものであるが、それは精神的なもの一般の原理に反するものではなく、何か別の面を簡略化して統合するためのしわ寄せみたいなものだろう。より個性的になっているようでいて、別の面でより一般性を増しているのである。

 

人の創造性や独創性というのは、その人がどれだけの一般性に到達したかによって測られる。

芸術にしても小説にしても、人に分かられなければ何物でもない。分かられ可能性が開けていなければならない。

分かられ可能性の開けていない、一部の人にしか分かられないような作品は、それでも原理的には全ての人に分かられる可能性が開けているわけだが、そのために特殊な前提をいくつも積み重ねてそれに接さなければならない。特殊な前提のもとでしか理解されない主張は世間では間違っているとみなされる、というのはご承知の通りである。芸術だって同じで、より真であるものやより間違っているものがある。そして、間違った作品しか作れない人は、その特殊な前提にまだメスを入れる能力がないので、より正しい作品に到達できないというだけなのである。

分かられ可能性というのはこういうもので、より普遍的で一般的な作品ほどその作者の個性があふれているとみなされるものなのだ。

 

何が言いたいのかというと、何かを為そうとするときには私の恣意性というものを消し去りたいね、という話。

 

2018.11.21