【復刻】文化論1 良い悪いと価値観間の相対性

 

ある文化は良く、ある文化は悪いなどということはない、

ということはない。

ある価値観が優れており、あるものは劣っているなどということはない、

ということはない。

 

確かにある価値の規定の中でのみ良いや悪いが問題になりうると言えるかもしれない。ある文化の中でのみ、一定の行為が良かったり別の行為が悪かったりする。同じ行為が別の文化のうちではまた別様に記述され、一方で良いとされていたものが悪いと言われ、and so on。

ここでいう文化的な相違というのは広い意味で解釈され、同一文化圏にいる人たちの世代間での差も含まれている。

 

我々は文化間の違いについて認識し、どちらの文化が優れているとか良いとか比較を行う。これは現にそうやっているという意味。たとえばLGBTに対する寛容さに関しては世代間で文化的ギャップといえるほどの態度の違いがあるが、この点に関しては人々は寛容であるほうが「良い」と考える。これは自分がどちらの文化圏に属するかにもよるわけだが、少なくとも寛容であることを勧める文化の人々は自分たちの正しさに確信を持っており、正当化するためにどこに訴えるべきかということにも見当がついている。つまり「正義」に訴える、訴える資格が自分たちにあると考えている。

文化間・価値観間で良さに違いがあるのは我々にとっては当然の現象だ。それが明示的に問題になったときだけ、いやそもそも良いとか悪いとかいうことは価値観依存的だからなぁ、なんて悟った顔してかまととぶるのは正しい態度ではない。

 

それではどこがおかしいのだろうか。①良い悪いは価値観依存的ではない。②価値観の射程が想定されているより広い。

①と②はどちらかを推し進めていけばもう一方が必要でなくなるような考え方であるかもしれない。物質だけからなる世界という考えを推し進めていけば精神が世界から排斥される、というような話と並行的に。

 

①そもそも、厳密に価値観によって良い悪いを規定しようとするとき、悪いは存在する余地がなくなる。「そんなはずはない、現に悪は存在するではないか」それは価値規定がまだ曖昧なところがあり、すべてを事前に決定するに足らなかったからだ。あるいは、出来事の発生する前後で価値規定自体が人知れず変化したのだ。変化するというのもやはりそれが曖昧だからに他ならない。

なぜなら、人間は、もし価値が曖昧でなく、余すところなく規定されているのであれば、それに反して悪を為すようなことはないからだ。人間は自由でないからだ。

人間は、規定された状況下にあるとき、良いほうを志向する。というより、規定されて我々が志向する、その方向が「良い」なのである。だからこの「良い」には本来対立項はない、同じ水準での「悪い」は存在しない。

これに対して、「現に悪がある」そういう人は我々の自由を根拠にするだろうか。この自由は無根拠である。規定のもとにある人間を、それでいてその規定を無視させることのできる能力、それが自由だということになるわけだが、ここでその規定から解放されるために別の価値規定を持ち込んでは自由にならない。いくつの価値規定に束縛されようと、どれだけ複雑に束縛されようと、「それにもかかわらず」自らを解放できると考えられなければならない。このことは単に自由概念の意味からそうなのだ。

つまりこの「自由」は無根拠だ。シェリングが『人間的自由の本質』で語る、真の自由概念を沈黙させる二つの誤った観念とは、決定論とこの無根拠な自由の二つである。

 

自由でないと言うと倫理的責任の問題が生じると信じている人がいるが、この無根拠な自由があれば倫理的主体であるといえるとでも考えるのだろうか。無根拠だけれども確かにある結果を私は引き起こした、その根拠は問えないけれども私がそうしたという事実に基づいて私は倫理的にその事態を引き受けよう、これが常識的にもっともらしい考えであるならば、私の行為は余すところなく価値観に規定されて為されたが、外ならぬ私がやったことだから私が倫理的に引き受けよう、こう言っても何の問題もあるまい。

倫理的責任というのがそもそも何なのか、そのことをこそ問わねばならないのだが、それについて確実であることは、我々が現に倫理的主体でありうるということだ。ここにさらに知識を付け加えることができるものは無根拠さの主張としての自由概念ではない。

 

①は良いとか悪いとかいうのは価値観依存的ではない、という常識はずれな主張である。しかし、価値観が全く曖昧さを含まないならば、全てのことは良く、悪は存在しない、したがって対立項を欠いた良いはもはや良いではないので、本当の意味での良いとか悪いとかいうのは価値観だけによって規定されるものではない。この点にこの常識外れの考えの正しさがある。価値観万能ではない。価値規定には曖昧さがある。

いや、価値観から離れて存在するものは何もない。そうも言える。そして、価値観というのはこの漠としたもの、それがどれだけ広大に広がっていようとも、どれだけ形がなかろうとも、それがそのあるがままで価値観だと呼ばれるのであるから、価値観が曖昧だということはあり得ない。これもまた正しい。重要な超越論的テーゼの一つに、「記号として対象化されたものに、隅々まで規定されていない曖昧なものはあり得ない」というものがある。これは「何であれ自己同一的であるものは存在する」というテーゼのことなのだが、「自己同一」のうちで記号化の果たす役割がもっとも理解するのが困難なポイントなので、これらのテーゼはなおさらに疑問を呼ぶ余地がある。

 

さて。もう我々は②「価値観の射程は想定より広い」という話に入り込んでいる。価値観から完全に開放されることはどんなものでもあり得ないとするならば、良いとか悪いとかいうことも価値観の内部での出来事だということになる。だが、それを言ったところで、それは「良いとか悪いとかいうのは現実的な出来事だ」程度の主張にしかならない。今度は「価値観」あるいは「価値規定」あるいは「文化」という言葉の意味が殺されるだけだ。

 

「価値観」が確たるものであれば「良い」が死ぬ、「価値観」が確固たるもののまま曖昧にしようとすると、結果は、それが曖昧になることはなく、ただ「価値観」が死んで終わる。

なぜこうなるかというと、これが先の超越論的テーゼへの挑戦だからだ。我々が対象として捉えたものは、曖昧であることは許されない。しかしながら、価値規定というものはどうしても曖昧でなければならない。

 

2018.10.01