【復刻】ニヒリズムのこと

 

 

当為の非存在(ニヒリズム)のこと。

 

 

道徳的・倫理的原則のことを当為と呼びます。当為、すなわち私たちが何を為すべきかということに関する真偽は、それがあるとすれば、何を基準にしているのでしょうか。一つの解答は、通常の理性が立ち入ることのできない超理性的領域から、当為が零れ落ちてくるというもの。超理性的なので、それが正しいものだと理解するためにはそう信じるだけの何かが必要になります。たとえばこの当為は神が下された命令だ、という物語なんかがこういう当為の理解を可能にします。もう一つの可能性は、この初めのものと比較して初めて意味を成すような選択肢ですが、理性が通常働く領域から当為が立ち現れてくるという考えです。つまり、経験から当為を導くことができるという考えです。経験からといっても、様々な経験があるので、したがって様々な導き方が考えられるということはすぐに分かります。しかし、少なくとも当為が超理性的な由来を持つのかそれとも経験的な由来を持つのか、という話をするならば、現代の私たちは超理性的な領域に対して批判するのが不可能になるほどの信仰心を抱いているわけではないので、後者、すなわち当為は経験に由来するという考えを採用せざるを得なくなります。

 

経験が当為の根拠であるとした場合、真っ先に問題になるのは経験が偶然の産物だということです。どんな経験も、偶然それが起こったから経験するに至った、という側面を持ちます。このような必然性を欠いた概念に当為が根差している場合、当為それ自体にも偶然性の影響が現れることが懸念されます。当為は、それを導く人が何を経験したかによって内容が変わってくることになりかねません。しかし、当為とは人間の倫理的な目標を指示するものですから、それが個人個人の相対的なものでしかないとするならば、当為は個人の将来の夢やなりたい人物像などと大差のないものになります。

当為は本来はそういったものではないと考えられています。ある人がなすべきだと考えられていることは、他の人も同様になすべきなのです。さもなければ、私たちは自分以外の人間の振る舞いについて、善いとか悪いとか判断することが全くできないことになります。当為に従った行為は善く、そうでない行為は悪いのですが、当為自体が人によってバラバラだったら、一見悪い行為にみえても実際その人からすれば当為に従った為すべき行為なのかもしれず、その逆もまたあるかもしれないからです。

 

そうすると、当為はやはり経験に由来するのではなく、超理性的な原理に基づいていると考えたほうがよいのでしょうか。それはどうも疑わしく思われます。

それでは一体、私たちは私たち全員に普遍的に当てはまるような当為を、どうやって経験から導くことができるのでしょうか。

 

経験から導くことができて、しかも私たち全員に当てはまる当為なんて存在しない、という考え方があります。これを、正しいかどうかはさておき、ここではニヒリズムと呼ぶことにします。

ニヒリズムが主張しているのは、当為などという概念がそもそも存在しないのだ、ということではありません。当為という概念が存在しないというための一つの方法としては、その概念がそれ自身のうちに不整合を含んでいるということを示すというやり方があるでしょう。しかし、内在的不整合をどのような仕方で示されようとも、現に当為という概念が私たちの思考のなかで機能している以上、当為という概念の非存在を示すことにはならないでしょう。概念の不整合性を示す手順を間違えたか、あるいはそもそも概念の不整合性が非存在を意味するわけではないということが考えられます。

なので、当為というものはある、そしてそれは経験から導かれる、ということを認めるならば、次のことも認めなければなりません。つまり、当為の出どころは経験しかないのだから、経験は当為を導かなければならない、ということです。

けれども実際にはどんな当為も経験は導かない、というのがニヒリズム的考えです。別の言い方をすれば、当為は経験から導かれるけれども、どんな内容をそれに適用しても、それは間違いだ、ということになります。

 

 

思考の方法と内容のこと。

 

哲学には方法論があるのでしょうか、それとも実は内容と切り離された方法などはないのでしょうか。哲学の方法として代表的なものは、ソクラテスのいわゆる産婆術に始まり、カントの分析論と総合論のペアや、ヘーゲル弁証法、より最近だと治療的態度というようなものが挙げられます。

これらの方法というのは、一見それだけを単独で取り出して理解することができるように見えます。たとえばヘーゲル弁証法なら、あるものとそれに矛盾するものを、まさにその二つのものの矛盾を作り出しているところに注目することで、矛盾したまま統一するという形で発展させる方法、というように説明することができますが、これは方法をその内容から独立のまま取り出したとみなすことができるでしょうか。

方法論を単独で取り出すことができると考えるためには、次の二つの課題をクリアする必要があります。第一に、方法論を説明する際、そこで用いる対象の性格に依存することなく説明できること。第二に、上の条件下で、方法論を十分に説明できること、この二つです。〔…〕。結論だけ述べると、内容から切り離された方法というものの理解は不可能である、というのが私の考えです。方法が十分に機能するとき、それはその内容に特有の性格のおかげでそのように働くことが可能だったのであり、またその性格を失った状態で方法だけを取り出そうとしてみても、今度は方法から何かが失われてしまっているのです。

 

しかし一方で、私たちの経験するいかなるシーンでも、思考が進展するとき、そこには「どのように」進展したか、その進展の方法が存在します。つまり、理想的には、経験から方法が導かれるのでなければならないのです。

 

経験は当為を導かなければならない、一方でどんな当為も経験から導くことはできません。また、経験からは思考の方法が(方法というのは突き詰めて言えば、それが理解され意識的に従われるものである以上、思考の方法です)導かれなければなりませんが、どのような方法も経験から導いてくることはできないのです。

 

昨今では、当為に関するニヒリズムおよび方法論についてのニヒリズムは比較的よく認知されています。つまり、どんな当為も経験から導くことはできない、どんな当為も存在しないという考え、また同様に、どんな方法も存在しないという考えです。しかしこれは事態の一面でしかなくて、こちらの面を強調しすぎるともう一つの面についてどう理解すべきかが分からなくなります。もう一つの面というのはもちろん、経験からは当為と方法とが導かれなければならない、という側面です。この側面も正しいのです。

 

 

はい、ここまでです。え? はい、ここまでです。

 

 

2019.06.17