【復刻】倫理2 なるようにしかならない

 

なるようになり、またなるようにしかならない

 

 

 

人事を尽くして天命を待つ、という。

私は、なぜ君は人事を尽くすのですか、と疑問に思う。

なるようになるということの本質は、なるように「なる」というところだ。なるように「する」ことでは全くない。

なにごとも「なる」なかで、「人事を尽くす」と言うのはまたおかしな話だ。尽くすか尽くさぬか、それすらもなるように「なる」ということではなかろうか。

 

自由でない、というのとは違う。

自由も不自由もともに包摂する「なる」がある。

 

それならば私は何もしなくてもよいのか、ただ家でひねもすごろごろしておればよいのか。

なるようになるに任せていれば、人間は堕落するかのように思われがちだが、この考えはなるようにしかならない思想を不当に弱めている。

もちろん君のごろごろした怠惰な生活は、なるようになった結果であるが、それはアイツの華々しい活躍がなるようになった結果であるのと全く同じだ。

 

 

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教育上の配慮といって、「なるに任せていれば人は堕落する、見ろ、あの輝かしい成果はなるようにしかならないを意志の力と努力で克服した結果なのだ」という考えを植え付けようとする世間という存在がある。

 

この教育的配慮というものは欺瞞に満ちている。

第一に、一方で「なるようにしかならない」現実というものがあり、他方で「人事を尽く」さなければならないという要請がある。しかし、先にも言ったように、「なるようにしかならない」ということは人事を尽くすか尽くさないかということまで含めて、なるようにしかならないということなのであり、人事を尽くすか否かはひとえに個々人の意思の問題ですなどと言うわけにはいかないので、この「人事を尽く」さなければならんという要請は端的に矛盾しているように見える。世間は簡単に人事を尽くしましょうと言うが、実際この矛盾について考え抜いてそう発言する人はその中に何人もいないので、これは教育上のあるいはより良い社会のための発言だと思っていれば、自分自身本気でそれにコミットしているわけでもないという言い訳が、最後の一線のところで、できるのである。

第二に、教育者というのは一般に、教育される側がよもや自分の世界を超え出てくるだろうなどとは考えもしないものである。それだけではない。教育するというのは多くの場合あえて疑問を黙殺するということでもある。「なるようになるではいけない、人は自分の意志の力でがんばらなければいけないよ」と繰り返し言ううちに、自分の意志すらなるようになるのうちに含まれているのではないかという疑問を封じ込めてしまう。それでいて何事か良いことを伝えた気になっているのである。

 

私は今、怒りを込めて書いているのだろう。おそらく、私は被害者だったのだろう。上の矛盾を解いてくれるような優れた教育者は私の周りには存在しなかったからだ。しかし私はもはや私が接してきたほとんどの教育者以上にこれらの事柄に関する概念地図を手に入れてしまったので、いまでは自分がそれを解消する側にならざるを得なくなり、被害者だと名乗ることもできなくなった。

そのようになってわかることは、少なくとも私を教育した人間はみな、この問題を解く力がなかっただろうということだ、また解いてもいなかっただろうということだ(解いたけれども人には言葉では伝えられない問題というのもありうる)。

答えられるべき問題は次のようなことだ。「何事もなるようにしかならないなかで、どのようにすれば私は「人事を尽くす」ことができるのか」。これは、なんだかんだ言ってもやっぱり「人事を尽くす」ことは良いことだという点では私も同じだ、というのではない。むしろ、「人事を尽くす」とは何か、が分からないのである。「人事を尽くして天命を待つ」には一定の真理がある。このことは私も同じように、あるいは下手したら世間以上に、認めている。では、「なるようにしかならない」と矛盾せずにこの真理性を汲み取れるような「人事を尽くす」の意味は? これはほとんどBradleyの倫理学におけるSelf-realizationとは何か、というのと同じ問題だ(Bradley倫理学なんて知らない?それもそうか)。

問題はこのようであるので、私に関わった教育者の誰も満足に答えられないことは当然ではある。しかし私は、疑問を疑問のままにしておいていただきたかった。「ともかくまぁ人事を尽くすことが大事なんだよ」で解決したつもりになってもらいたくはなかった。教育される側は教育者の世界を初めから超え出ているものだ。教育者は自分の世界に落とされた彼の影を眺めることができるに過ぎない。自分の世界から知識を引っ張ってきてなんでもかんでも教えられると考えてはいけない。

 

 

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一部、疑問に持たれた方がいるかもしれない。「現実はなるようにしかならないって、なんでそう前提しているの? 「なるようにしかならない理論」が正しいかどうかは証明されていないのでは?」

確かに、「なるようにしかならない理論」は証明されていない。だから、現に世界がなるようになって、またなるようにしかならないのかどうか、そこのところは実ははっきりしていない。

はっきりしていないけれども、なるようにしかならないと考えることに全く矛盾はないように見える。同様に、何事もなるようにしかならないとは限らないと考えることも矛盾を引き起こさない。つまり、どちらも真なのである(どちらも真「でありうる」ではない、どちらも真なのである)。

私たちは、どちらも真である二つの主張の間に立って、自分の都合のいいようにある時は一方を採用し、ある時はもう一方を、という風にすることはできない。なるようにしかならない理論と通俗的な意味での「人事を尽くす」こととは、何度も言っているように、矛盾する。にも拘らず、「人事を尽くしましょう」と言っている人たちは、このなるようにしかならない理論の真理性を端的に無視し、その逆の「なるようにしかならないとは限らない」理論の真理性だけを強調している。確かに「なるようにしかならないとは限らないよね」という考えも真なのであり、そっちの側面だけを見ている限りでは、通俗的な意味で「人事を尽くす」ことは何も矛盾ではない。

 

教育者はもしかすると、「私は賭ける、世界が「なるようにしかならないとは限らない」ものであることに」というかもしれない。しかし、賭ける賭けないの問題ではないのだ。賽はすでに振られてある。

結果は、「世界は「なるようにしかならない」であり、また「なるようにしかならないとは限らない」である」。

先述のように、教育者は最後の一歩のところで自信を自身の主張にコミットさせないという離れ業が可能であるので、私は賭けているんだという何の支えにもならない考え方に頼ってある程度満足していられるのかもしれない(なんだか教育者の悪口のようになっているが、そうではない、教育者は立場上そうなりがちなのだ)。しかし教育される側からすると、先生が賭けたとかそんな個人の信条に属する事柄はどうだってよい。信仰というものはこのように恣意的なものであってはならないし、恣意的な信仰によっては理性は満足しないものだ(信仰は理性を規定する、と言われる(再びBradleyによると)。しかし、そのとき信仰は理性を超えてくるので、「私はOOを信じる」と言うことはできなくなっている)。

 

同じ批判が私にも飛んでくるかもしれない。私も一方の側に恣意的に与していると非難されるかもしれない。

つまり、私は「世界がなるようにしかならないのは事実なのに、人事を尽くすとはどうすればよいのか」と言ったわけだが、「お前だって勝手に「なるようにしかならない理論」だけを正しいとみなしてるじゃないか」と言う人が出てくるかもしれない。

答えよう。世界は「なるようにしかならない」し、また「なるようにしかならないとは限らない」わけだが、「人事を尽くす」ことと関係があるのは世界が「なるようにしかならない」という事実だけであって、もう一方の面は「人事を尽くす」こととは関係がない。だから私は関係のある事実だけを取り上げて述べているのだ。

 

世界が「なるようにしかならないとは限らない」ことが、人が「人事を尽くす」ための条件だと考える人がいるかもしれない。もしそうだとすると、世界が「なるようにしかならない」ことは、「人事を尽くす」を不可能にしてしまうのだろうか? 通俗的「人事を尽くす」概念に従えばそうだろう。しかし、そうだとすれば、世界が現に「なるようにしかならないとは限らない」と同時に「なるようにしかならない」以上、「人事を尽くす」ことはできなくなる。

AはXを可能にする条件だ。一方で、BはXを不可能にする条件だ。さて、今AとBがどちらも成り立っている。Xは可能か、不可能か? →不可能。適当な例で考えてみてください。

私は、「なるようにしかならない」世界の中で、「人事を尽くす」ことができると思っている。そしてその意味で「人事を尽くす」ことが「人事を尽くして天命を待つ」の本当の意味、本当の正しさを表していると思っている。だから、その限りで、「なるようにしかならないとは限らない」が「人事を尽くす」の条件かどうかということはここでは関係がない。

 

一般に、世界が「なるようにしかならないとは限らない」からといって、それと「人事を尽くす」こととの間にどんな関係があるのか。世界が「なるようにしかならないとは限らない」のは私たちが「人事を尽くす」からだと考えているのだろうか?

一部の自由を論じる人たちにも同じおかしさがある。世界が決定論的でないとしたら、そこで決定論を打ち破ったのは他でもない人間の自由だ、と考える人たちがいる。私たちが自由だからこそ世界は非決定論的なのだと思っている。なぜ? 私たちが自由だとか自由じゃないとか全く関係なしに世界が非決定論的かもしれないじゃないですか。

「だいたいにおいて決定論的な世界のなかで、ただ一つ非決定論的な要素が人間の自由だ。だからこそ自由な人間は素晴らしいのだ」と言いたいがために、自由だけが決定論を打ち破る要因だと想定したくなるのかもしれない。このような願望によっては世界の事実は動かない。

 

 

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私は今日はこういうリクツっぽい話をしたかったのではない。もう少し切羽詰まっていたのだ。単に被害者としてでなく、回答者としてやや切実に回答すべく迫られていたのだ。

しかしどうでもいい話を延々自分自身にして聞かせているうちに、実践的要請の声が遠のいていってしまった。

呼べば戻ってくるやろうか?

 

 

不思議な話である。

全て、およそ、どんなことも、現になるようになって、なるようにしかなっていないのに、それでも私は何かがんばらねばならない感じがする。私の人格をかけて何かを決めなければならないような気がする。

 

「何も考えずにえいっと飛び出しなよ」

嘘だ。君は何も考えていないのではない。私と違う何かを考えて、しかしそれを言葉で表現しないで、ともかくえいっと飛び出したのだ。

「考えすぎてはいけない」

逆だと思う。私は考えなさ過ぎているのだ(周りにそう見えなくとも)。あるいは、私は事実の一面のことだけを考えすぎているのだ。ノイズキャンセリングがどうやって成り立っているか知っているかね。外からくる音に、それを打ち消す波長の音をぶつけて消しているのだ。なにも鳴っていないのではない。むしろガンガン鳴っているのだ。私はガンガン鳴らしきれていないので、結果的に一方の音だけがうるさく聞こえてしまう。

 

 

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「さぁ、まぁ、とにかくもうスペースがない。それこそ人事を尽くして天命を待とうではないか。」

『何を言っているか。私はいつでも人事を尽くしているよ。』

「本当かい?」

『ほんとだとも。私は「人事を尽くす」ということの意味を、少なくとも理論的には、よくわかっている。私たちはいつだって人事を尽くしているし、そうでないはずがないのだから』

「それじゃ「なるようにしかならない」と同じだねぇ。「人事を尽くすようにしかならない」ということだからねぇ。」

『その通りだ。「なるようにしかならない」し、人事を尽くすことも「する」ものではなくて、結局「なる」ものでしかない。そしてそのことを私たちは「知っている」のだ。』

「すると、何が問題があるんだい? どこで悩んでいるの?」

『うん、私が「やるべきことをやる」とか、「やりたいことをやる」とか、何かを主体的にやろうとするとき、つまり行動を決定するとき、私は…。それを決定する明日の私は、きっと人事を尽くしてやるに決まっているのだけど、そのことは私も疑っていないのだけど。今の私に決められないことを、明日の私が決めるとして、今の私はどうしてそいつのことを信じられるだろう?』

「だけど、疑ってないって言ったじゃないか」

『うん、言った。どうして私は信じているのだろう?』

 

 

2018.10.07