【復刻】仕事は私をして働かしめる

 

 

仕事がはかどらないとする。それは私のせいではない。仕事のせいだ、敢えて言えば。だって、「仕事が」はかどらない、と言うじゃないか。はかどらないのは仕事である。もし私が原因ではかどらないのだとすれば、「私が仕事をはかどらない」とかそういう言い方をするはずである。逆に、仕事が順調に進むなら、それも仕事のおかげである。私は何もしない。強いて言えばこの体を貸したくらいのことはあったろうと思うが、「いい会議室だった、おかげで仕事が万事うまくいったよ」などと言わないように、「いい身体だった、おかげで仕事がうまく進んだよ」とは言わない。

主導権は仕事にある。仕事には意志があるのだ。翻って、私には意志はない。なぜか。あらゆるものは、私のうちに根拠を持つことがないからだ。すべてのものは私以上のものである。他者論というのは私以上のものを他者と見做すところから始まるのであって、どこかで「たしかに他者は私のうちに入りきるものではない、けれども、私だって少しは肩を並べられるくらいのものなんじゃないかなぁ」なんて考え始めると、一切の他者はあなたの中から出て行ってしまう。私以上でないものはない。なぜか。そのようなものにただ一つ与えられる呼称が「私」だからである。仕事も他者である。外からやってくるからだ。仕事はどこかに根拠を持っている、出自や必然的連関を持つ。世界の事実は、今ここにある私のうちに根拠を持つことがない。根拠を持つことがないということが一つの事実を成すのではないのか、すなわち「私は私である」「私は今ここに存在する」という事実を成すのではないのか。成すのではない。これは少しも事実ではないからだ。この命題に対する私の確信は、これが事実ではないという確信に由来するのである。事実でないなら何を言っても間違いも正解もないからだ。

とても形而上学的になった。言うまでもないことだが、何を言っているのか説明しろと言われても無理である。私にも分かっていないからである。なぜ人間は自分でも分からないようなことを書くことができるのか。このことは私には全く不思議ではない。なぜなら私はこれまで何度も自分でも分からないことを書いてきたからだ。むしろ世間一般でこのような疑問が湧くことのほうが不思議なのである。私が書くことを私が分かっていないなんて、当たり前じゃないのか。なぜなら私はただ体を貸すだけだからだ。これも仕事である。外から来ている。他者である。他者であるから私以上のものである。私以上のものであるから私には分からない。ここまで書いて、私には自分が何を言っているのか分かっているような気がしてきた。私には分かっている、と言ってみる。分かっているか、分かっていないか、そんなことはどうでもよいのである。なぜか。分かっているも分かっていないもどちらも事実ではないからだ。

 

さて、私たちは仕事をする。広い意味で言えば、あらゆる活動を仕事と呼ぶこともできる。私たちは自分が自分の力で能動的に働いていると思っている。思っているのか? だったら、この「私たち」から私を省かなければならない。私は自分が自分の力で仕事をしていると思っていないからだ。自分にそういう「力」があるとは思っていない。仕事が私たちを動かしているのである。もちろん、ここで言っているのは「仕事量が多いから残業を余儀なくされる」とかそういう事態のことではない。仕事のほうが意志をもって動いていくので、私たちはそれによって動き、生きるのである。

前段落最後の文章はなんだか不器用な文章に見える。しかし世間的に流布していない考えを表明するとしばしばこのようになる。逆に、世間的には流布しているが、間違っていると思うので私が使いたくない表現をここで二つ挙げておく。①「仕事のほうが意志をもって動いて「くれる」ので、私たちは…」仕事は他者である。仕事が私に根拠を持っているわけではない。だからあたかも「私のために」動くかのようにしゃべるのは不適切でありまた不遜である。仕事は私を気にかけない。私を通して自己を実現するだけである。②「仕事のほうが意志をもって動いていくので、私たちはそれによって動き、生きる「のがよい」」仕事のほうが意志を持ち、また偉大であるという事実を前にして、私の態度などは関係がない。私に何かをどうにかできると思っているのでこれは間違いなのである。

 

最後に、仕事とそれに付随する責任について。

主体的に働く仕事があって、私がそれに付随するだけだと考えるならば、仕事が失敗したとき私に責任はないのか。ない。私に責任はない。それでも怒られたりするじゃないか。そりゃそうだ。なぜ、そりゃそうなのか。そういうものだからだ。仕事に失敗すれば怒られるのである。いや、失敗しなくても怒られるときは怒られるのである。責任や倫理という概念とは関係がない。怒られという現象と責任とが結びついていなければならない、という考えは存在するが、考えが存在するからと言って現実にもそういう結びつきが存在するわけではない。むしろ、この考えは「考え」として、つまりイデアとして存在することを自身のアイデンティティの一部としているので、どうやっても現実に存在することはあり得ない。ツチノコが存在しえないのと同じである。だから、仕事の責任からすぐに怒られという現象に話題を転じるのは間違いなのである。話題を転じたのは誰か。私である。私が間違いなのである。

自由論と責任概念との関連ということが長いこと哲学的議題になっているというのは本当だが、私はここ五年くらいずっと、つまりいかに哲学、とくに現代分析哲学が自由と責任についてどうでもいいことを語ってきたかを耳にしてからずっと、自由と責任とはほとんど関係がないという気持ちを抱いてきた。長い間哲学の歴史が問題にしてきたことを問題に思わないというのは私の問題感受能力がやばいからなのか。これについてはたしか永井均が「長い間哲学の問題とされてきたものほど本当はどうでもいいものだ(どうでもいいものだから残ったのだ)」という趣旨のことを話していた気がする。この考えはもっと広まってもよい。真でも偽でも関係なく、とりあえずある程度広まることに意味のある考え方というものもある。哲学の学術的権威というものがあるとすれば、このようなどうでもいい問題に精通しているかどうかで測られるべきではない。こうして私の話は脱線してゆく。

自由論はおいておくとして、責任論、あるいは倫理の本質というのは極めてとてもかなりすごく真性の問題である。上で私は仕事を失敗した私に責任はないといった。ないのである。しかし、ないのにあるのである。ないはずのものがあるのである。なぜあると言えるのか。あるからだ。私は、仕事の失敗によって、責任を感じるからだ。倫理を認識するからだ。ないはずのものなど人間理性の前には存在しえない。人間理性はそう思っている。なぜか。名づけることができるからだ。名づけられたものは、それがどれだけ異質であろうとも、他の(同じく名づけられた)存在者と同列のものとなって存在し始めるということは『千と千尋の神隠し』を見た人なら知っているだろう。そして理性の前に名づけられないものはないはずなのである。これはおそらく正しい。理性に名づけられないものはない。湯婆婆に名づけられないものはない。

倫理学とは、と以前問題にした時も同じような話になったと記憶している。その時は、「私は正しい、正しいにもかかわらず正しくあらねばならない、というのが倫理学の問題なのだ」というようなことを言っていた。さすがにこの辺りは何を言っているのか分からない。分からないけれど分かる。

そういうわけであるから、仕事は私をして働かしめるのである。

 

 

という仕事論を、最近積極的に提唱している。

 

 

2018.08.23