【復刻】田舎の生活

 

それなりに久しぶりなので、このブログの日記的な側面をまず先に充足しておくこととする。日記的な側面? そんな側面あっただろうか。ともかく最近について。

閉塞感、が、ある。日々、頭を使わない。それは、まあ、よい。視野が、狭まってゆく。それも、まあよい。世間に関してもうずっと無知である。なにしろ特に知らなくても困らないのだ。誰かとそんな話題になるわけでもなく、ニュースが生活に影響を与えているところに出くわすわけでもない。出くわしていたとしても気づかないだろうが。これが、私の現今の、生活で、ある。生活とは、こういうもので、ある。こういうものでも、ある。私の今が「典型的な」生活だというのではない。そもそも生活でない人生などはあり得ないので、ああ、生活だなぁ、という実感などはすべて偽り。お前はいままで死んでいたのか。観念的に、生活だなぁ、と口に出すところから偽りは始まるのであって、その時「生活」という概念が私の現在に適用されることになる。「生活」という概念には「正しさ」が含まれていると思う。なぜなら生活でない人生はないから。自分で自分について、正しいなぁ、そう感じることほど手っ取り早く無知に至る道はない。うそ、あるかどうか知らない。ともかくそれは一つの無知無明への道である。こうして私の現今は生活だなぁ生きているなぁと思っているうちに私の眼は暗くなってしまったようである。そういった閉塞感。だけど、それも、まあ、よい。

何をしていれば人はこのようになるのか。たぶん、田舎で暮らしていればこのようになるのだ。私の身体からは、しかしながら、微妙に都会の風が抜けきらず、都会的な自尊心に時折さいなまれていたり、いなかったり(都会のせいにするなって? もっともである)。とはいえ、典型的な田舎人というものもおそらくは存在せず、典型的な田舎人というのはここでは自分の人生についてこれこそが生きるということ・生活するということであるという肯定的な感覚を無自覚のうちに持っているような人のことだが、みんながみんな自己肯定と自己否定のちょうどいいところで奇跡的なバランスを保ちながら生きているような気がする。その奇跡的な巧妙さは、一人の人間が全精力を傾けてやっと維持できるほどのものである。つまり、全ての人が全精力を傾けてこの現在のバランスを取りに来ているということだ。そりゃそうだ。そうに決まっている。だから、そう思うと、私は果てしない気持ちになるのである。私は私の現在で精いっぱいで、そもそも他人に干渉などできるはずもない。その理由がこれである。

 

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2018.09.10