【復刻】新時代に思うこと

 

 

新時代については、私は希望を抱いている。

 

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今日は日本が戦後二番目に低い投票率を記録した参院選からちょうど一週間が経過したところである。とりあえず依然として自民党が強いということらしい。だが自民党に理想的な政党としての在り方を重ねてみている人はおそらくいない。隙だらけなのである。

人は言う。このような国家の在り方をしているのは対外的に恥ずかしいことだと。だがこのような政党を作り出したのは紛れもない日本の国民なのだと。内外で様々な問題を抱えているにも拘らずこのような低水準の投票率をたたき出してしまう国民なのだと。くだらないことには熱を出して知りたがるくせに大事なことには無関心でいる民度が問題なのだと。

 

最近のくだらない話と言えば、よしもとの闇営業の話題である。ほとんど私とは関係のない話なので、おそらく同様にほとんどあなたとも関係のない話だったことだろう。最近よしもとのお笑いライブを見に行って、そのあとでこの話題が急騰しだしたのだが、私が考えたことと言えばせいぜいお笑いライブ面白かったけどもう見に行くのやめようかな、いやでもあんまり関係ないか、というくらいである。私が個人的に興味を持ったのは、「一番悪いのは詐欺グループ。そこと金銭授受があったことが問題なんだったら、会場を貸したホテルも裁けよ」という同じ主張をウーマンラッシュアワー村本か言ったときには馬鹿にしたような反応が、メンタリストDaigoが言ったときには賛同するような反応がネット上で見られたことである。

人は言う。メディアは本当に重要な情報である詐欺グループの話題や参院選にリソースを割かず、どうでもいいよしもと所属の芸人個人にスポットライトを当てた報道ばかりしていると。だがこうした報道がなされるのはこういう報道のほうが結局金になるからであると。こういう報道が金になるのはその受け取り手の関心のあり方に起因するのだと。だから結局民衆の問題なのだと。

 

国民の教養や関心のあり方に問題があるのは、全面的にではなくとも少なくとも部分的には教育制度に問題があるからだと言われる。大学入試の英語の試験をTOEICやTOFLEやIELTSなどの既存の英語力検定試験で代用するという方針があるらしい。入試の在り方に関しては、どれがいいのかよくないのかいまだよく分からないうちからころころ方針を変更しすぎている印象がある。教育現場は多忙さを増している。ローカルなコミュニティが失われたことによる負担はほとんど家庭と学校へ振り向けられる。しかし家庭もミニマル化が進み、三人家族という在り方は普通である。家庭が人倫として以前よりよく機能するとは考えられないから、結局公的な機関であり最後のセーフティネットたる学校に負担が行く。それでも今ほど学校がよく機能しているのはさすがと言うべきだろう。知能水準の低下というが、学校のせいばかりではない。家庭で賢くなる契機を全く持たない子がちゃんと賢くなれようはずもないのだ。

人は言う。文科省は現場を全く考慮していないと。すべての対策は失敗であり、その失敗を隠すための対策が今も延々となされているに過ぎないと。だがそれならせめて自分たちの子供くらいちゃんと育ててみろと。いや、それは私たちには難しいと。それは難しいから、学校と文科省のせいにさせてくれと。

 

もうこの国は終わりなので、海外に逃亡しよう。研究の分野では、最近は賢い若者たちは海外に進出しようというモチベーションが高いらしい。国内ではまともに研究費がもらえないから、またポストも縮小傾向にあるから。するとおかしなことに、これが他のいろいろな分野でも正しい道だと考える人たちが出てくる。賢い人の選択は正しいのか。テレビなどで見るある種の東大崇拝からも感じられる通り、深刻な知的コンプレックスに陥っている人間は少なくない。どうしても賢くなければ生きることは許されないと考えるのだろう。それで情報リテラシーが別段高くもないのにきちんと世情をわきまえているつもりでいる人の中には海外に行こうという動機が高まってくる。「英語力」というバカ丸出しの概念がコンプレックスとともに流通するのも結局これらの概念をcoinする世間がリテラシーを発揮しているというよりただ情報に流されているからだろう。多くの人にとって今一番鍛えるべき語学力は「日本語力」だ。語学力が即座に外国語力を意味する現状は謎である。私たちには第一言語への反省がない。それがないならないでいいが、少なくとも昔の日本には母国語で最先端の思想と文化と技術と研究と衛生と政治制度と建築技術と数学と社会福祉とにアクセスできるようにしようという情熱があったのであって、そんな先人たちの理想に思いを馳せることもなく、軽々しく私のいるべき場所は日本じゃないなどと言うことは私にはできない。

人は言う。私のやりたいことは海外のほうがやりやすいと。幸い英語は中学から数年間はやっているので、あとはセブ島に3ヶ月行けばしゃべれるようになるからと。この国にいても未来は見えないからと。

 

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繰り返し言うが、私は新時代には希望を抱いている。

 

一色登希彦による漫画版『日本沈没』は異論を待たない不朽の名作であるが、その最終15巻で中田博士は次のような旨をいう。「君は確かに沈みゆく日本を救った。だが現実のこの日本は沈まないがゆえに、なかったことにしてしまいたいあれこれを無にしてしまうこともできない。」フィクションの中で、セリフとしてこれを言うのだからとんでもない。私たちの誰もが素朴に抱えている「日本に沈没してもらいたい」という気持ちをズバリ指摘する発言である。

日本沈没』は(少なくとも漫画版は)「日本が沈没する、その過程ですべてが(まさに私たちがこの日常に感じているのと同じモヤモヤが)上手いことリセットされてくれる、そして最終的には日本人は列島からの脱出に成功する」という、プロットだけ見れば世間が歓迎しそうなお話だが、決してそこには収まろうとしないところが素晴らしい。上のような安易なプロットに収めたいためのポイントの一つは、上に挙げたようなメタ発言である。ストーリーのなかで、めでたしめでたし、となったタイミングで「だが現実のこの日本は沈まないがゆえに…」と来る。第二のポイントは、ストーリーが最終的に「世界沈没」で幕を閉じるという点である。私たちとしては、日本人が無事脱出して世界に飛び出して、世界である程度認知される活動に従事するということで民族的同一性を保てている状態、そこでストーリーが終わってくれるほうがいいのに、この作者はわざわざ世界沈没まで持っていってしまうのだ。

安易で平和でめでたしめでたしな結末に持っていくのは、優しいようでいて優しくない。私たちは今も変わらず「日本に沈没してほしい」という願望を抱いているが、安易で平和なプロットはただその願望にかこつけて漫画の発行部数を狙うだけの、意義を持たない作品になってしまうだろう。中田博士が「だが現実の日本は沈まないがゆえに…」というメタ発言をしなかった場合、私たちは現実の日本が沈まないことをつい忘れてしまう。そして現実の嫌なこと、凝り固まった政治体制や堕落したメディア、機能しない教育、それらと常に相対的にある私たち自身、そんな嫌なことを一気に解決してくれる事態に希望を見出す。だが現実はそうはなっていない。いずれこの全リセット型の希望は嘘だということを見出す。そうすると、どこに希望があるのか…。安易で平和なプロットは、嘘の希望を売りつけてしまうので優しくないのである。

 

ちょっとずつでも、良くしていこう。

この選挙のときにも、ここでみんなが投票すれば世相を変えられるという声があちこちにあった。私たちができることをすれば、ちょっとずつ変化を生み出していける。だが今回の選挙に関してはこのような声はうまく反響しなかったようだ。それは投票率の低さで示されている。

私としては、さもありなんと感じる。私が正義を憎んでいたり、行動するのを面倒くさがるというわけではないのだが、ちょっとずつ良くしていこうという考えにほとんど希望を感じないのである。

現実においては、正義は不正義によって活かされている。穿った見方だと言われるのを厭わず言えば、この世にはいじめられっ子に自殺してほしいと願う人たちがただ一種類だけ存在する。いじめられっ子を守ろうとする団体の人々である。彼らは昨年度何百人の児童がいじめを苦にして自殺したと述べる。それが一人や二人なら、彼らは次に不登校児童の数を述べる、あるいは相談件数を述べる。それらがいずれも1件とか2件なら、彼らの存在意義はないわけだ。人は存在意義を欲する。殺人事件の目撃者という意義が欲しくて殺人現場をかき乱すという悪事を為す滑稽な人物が東野圭吾のどれかの短編集に描かれているが、これは人間心理の自然な露出であり、この人物を他人事として笑えないのは明らかである。だが、いじめられっ子を守ろうという人々に、その存在意義と引き換えに「本当に」いじめがなくなってくれることを望むかと尋ねる必要がないのは救いだ。現実のこのいじめは無くならないがゆえに、である。他の正義についても然り。それが注目され、賛同され、称賛されるとき、それは不正義に活かされている。

だからといって正義を否定するわけではない、というのは繰り返しになってしまうので言わないが、私が正義を少しでも実現しようという声に今のところ希望を見出せないのはこの点が大きい。正義は不正義を憎むだけではだめだ。それによって自らが自分自身として在ることができていると、正しく認識しなければならない。

世に不正義が大きい時、不正義を憎むだけの声は浅はかである。あたかも、不正義を憎む自分たちだけは不正義ではないかのようだ。だがあなたたちはその同じ不正義に養分をもらっているのではないか。

じゃあどうしろというのか。それを人に聞くのはお門違いだというものだ。いみじくも考えることのできる存在として在るのだと自覚しているならば、考えて選択する自由と同時に、考えても分からないことから逃れられない不自由も背負わなければならない。どうしろというのか、それを自問するのが考えることのできる存在である。

 

今は、反省を深めよう。

これが私の抱く新時代の希望である。私たちは衰退していくかもしれない。ゆっくりと沈んでいくかもしれない。田辺元の『懺悔道としての哲学』なんて読んだことのある人はほとんどいないと思うが、否定的な自己反省の果てに私たちはどうしようもない状況に至り、懺悔する。懺悔することで救われたいから、懺悔する、初めは。しかしこれは本当の懺悔じゃないので、救いはやってこない。いよいよ救われようと藻掻く自我も失せて、無心のうちに懺悔をする。そうして初めて救われる。そういう救いがあるように感じる。もちろん、それまで何もしなくてよい、ただ待っていればよいというものでもない。だが、何をすればいいというのか、こんな時代に。

ひどい時代である。衰退しているのは明白な事実である。緩やかな沈没。そして私は緩やかな沈没に飲み込まれればいいじゃないかというのである。ひどい時代だ。

もはや、希望は、ない。

 

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新時代の希望を語り終えるにあたって、私はこの国の借金だけが心配である。こればかりはどうにかしなければならないことのように感じる、が、実際はどうなのだろう。

 

 

2019.07.29