【復刻】弱者のフリという悪徳

 

書かねばならない!私はそう思ったのだった。

 

弱いフリをする人というのはどこにも一定数いる。

いつも俯いていて、話しかけられたらビクッとする人とか。

 

 

 

今日は、最近の世の中を賑わせ続けているこの話題について。

なに?賑わせていない?いやいや、めっちゃ賑わせてるよ。賑わせ続けているよ。

 

よく見てほしい。そこら中にいるんだ、弱ぶる奴が。

 

弱いフリをする奴は本当に悪い奴だ。

これは、きっぱり「悪い」と言っていい。というか言いたい。

 

「弱いフリ」をするというのは、弱いこととは違う。

「私は弱いです」と周りにメッセージを送ることだ。

 

あなたがもし弱いとき、困ったとき、悩んでいるとき、あなたがやることは「弱いフリ」をすることではない。とにかく自分の身を守ることだ。

そのためにはいくら周りを利用してもよい(「弱いから利用してもいい」のではない。もともとあなたにとっての他人とはそういうものなのである)。

 

弱ぶるって、なんだ?

 

 

弱いフリをする人は、弱いフリによってなにを言ってきているのか?

結論だけ先に言うと、彼ら/彼女らの発しているメッセージはこういうものである。

 

「私は、ご覧の通り、こんなに弱い。こんなに傷ついている。こんなに無力だ。

こんなに弱いから、あなたは私を攻撃してはならない。

こんなに傷ついているのは、あなたが私を攻め立てたからにほかならない。

こんなに無力なのは、あなたが今も私から力能を奪っているからにほかならない。」

 

こんなに容赦のない攻撃は、私はほかにほとんど知らない。「お前のせいだぞ、こんなに傷ついてるのは」なんて、攻撃以外の何でもない。

攻撃が容赦ないだけでなく、守りも怠らない。「お前はこれ以上俺を攻撃してはならない」と言うからだ。

 

 

 

 

私は、「弱いフリ」はとても悪いことであると思っている。

だが、「弱いフリ」をすること自体は、嫌だとは思っていない。弱ぶるのも時としては必要である。

 

たとえば、マイノリティは実際に強いか弱いかでいえば弱いわけだし、そういう人たちは声をあげるべきだ。そうでないと、問題は見えてすらこないだろう。

そういう時に、弱者としてのメッセージを発することは、もし必然的でないとしても、それ以外のなによりも効果的なのは間違いないだろう。だから、積極的に、戦略としての「弱いフリ」をすればいいと思う。

 

だが、「必要だ」ということと「悪くない」こととは違う。

弱いフリをする人は、どんな事情であれ、みんな道徳的に悪いことをやっているのだ。私が一番嫌なのは、弱ぶるくせに正しい顔をする人たちだ。

 

そして、なぜか知らないが、弱いフリをするほとんどの人は、自分が正義みたいな顔をしている。

次弱ぶってる人を見かけたら、よく見てみてほしい。たぶん、自分のこと正義だと思ってる。

 

マイノリティのほうでも話は同じだ。

フェミニズム運動でもLGBTの主張でもなんでもいいが、ともかく彼らは正義は自分たちにあるといった顔をしている。

それはそうなんだろう、だいたいの場合。

そして、彼らはおそらくマジョリティの不正義によって抑圧されてきたのだろう。

だが、なぜそこで自分たちが道徳的正しさでマジョリティに立ち向かっていると考えるのか。

なぜ、「相手が悪いことやって来たから自分らも悪いことをやり返します」と素直に認めないのか。

 

繰り返すが、主張が世の中に必要であることと、「弱ぶる」ことの悪とは別の問題だ。

 

本当に正義を振りかざしたいなら、弱ぶってはいけない。「弱い我々はお前たちの悪行を非難するが、お前たちは弱い我々にさらに攻撃を加えるなどという非道なことはしてくれるな」なんていうアンフェアな主張をすべきではない。

正義を貫くためには、まず強くあることが求められる。

 

それが、望んだような帰結を得られないのなら、悪くなるしかない。

「ああ、悪いことやってるなぁ」と思いながら、「でも、こうするしかねぇんだよ…」と呟いて、好きなだけ弱いフリをすればいい。

悪いことをしているという自覚はすべて自分に返ってくるだろう。決して気持ちよくなってはいけない。

 

なぜ、抑圧されながら、さらにそんな自責の念まで負わなければならないのか?

そんなことは、私は知らない。

誰かが望めば、責め苦の量がだいたいみんな同じようになるものなのか?そういう公平性が世界に保たれていると誰かが教えてくれたことがあったか?そもそも疑問の出所がおかしくないか?

 

 

2018.02.06