日々の争い
日々は、争いである。
争いは生活の必然である。なぜなら、時間の持続とは長すぎるからである。
どれほどの時間の持続であっても、それは長すぎる。長すぎるので、そこでは争いが生まれる。
この説が本当かどうか、あるいは争わない方法があるのかどうか、そういうことは考えるに値しない。
日々が争いであると認識されたときから、日々は争いなのである。争いになるのである。
これは、私がそんな争いに負けたようでいて実は負けたとは限らないという、そんな話。
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争いにおいて核となる概念がある。それが「ルール」である。
争いはルールをめぐって行われる。
ルールとはなにか。それは「争いの優劣を決するための共通理解」である。
ルールを巡って展開されるのが争いであるから、そこには二つの極端な形式がある。
一つが「ゲーム」と呼ばれるべきもの、もう一つが「殺し」である。
ゲームとは、「ルールが固定されていて変化することがない」と信じられているような争いである。言い換えれば、「ルールが変わらないこと」がルールとして認められているような特殊な争いである。
ルールというのが相互の共通認識である以上、それが不変であるというのは幻想にすぎないので、本当にルールが不変であるとするとそれはそこにもはやルールがないということを意味する。すなわち、厳密な意味におけるゲームは、もしそのようなものが存在するとすれば、もはや争いではない。ある事象の境界線それ自体はその事象の要素に含まれない。
「殺し」とは、相手方の消滅である。ここでもまた、「相互の共通理解」であるルールが消滅している。よって、殺すことも厳密な意味においては争いではない。もっとも、相手を殺す直前まではそれは争いでありうるわけだから、殺しのなんらか本質と言えるようなものは相手の絶命にあると言えるだろう。
通常、ゲームや人殺しというのは争いの一種典型的なものだと見做されているが、これらは実は争いの極端な形なのである。
通常の争いは、このような極端な形はとらない。それでは、日常的な争いとはどのような形をとるのか。
パッと聞いただけでは理解しにくい話かもしれないが、争いにおいては、状況と同じくらいルールそれ自体も奪い合うことになる。
むしろ、ルールの奪い合いこそが主たる戦場であるような争いも多い。
事実状況がまったく変わらなくても、ルールが変わるだけで優劣が変化することがある。
ルールとは、その状況をみて双方が優劣をどのように決めているかという共通の認識なのだから、当然である。
ある状況において、自分に非があると思っていれば自分は負けているのだし、その後で実は相手方の指示の出し方が不適切であったのだと分かれば自分は優位に立つ。
言葉は認識を形成する。言葉によって、私たちはお互いの認識を共通のものとする。
ただし、言葉は明示的にルールを示すわけではない。明示的にルールを示すことはおそらく本来不可能なのではないかと思う。それはまるでルールというものが不変であるという想定が信じられているかのようだ。
私たちは争いにおいて言葉を使ってルールを奪い合う。
合意するふりをして一言付け足すことによって、ルールを微調整して自分の優位を守ったりする。
言葉は真実によって律されているから、争いに勝ちたいと思うならば、あるいは社会的生き物として強くありたいと思うならば(こう思わない者はただの馬鹿なのだが)誠実に生きるのがよい、と思う。真面目に生きるのがよいと思う。
ただし、重要なことであるが、どれくらい真面目になれるかというのはその人の能力であるから、真面目になろう誠実になろうと思うだけではほとんど何の役にも立たない。
私たちの日常的な争いは、おおかたルールの奪い合いである。
そしてルールは言葉によって合意される認識からなる。だから私たちの争いは言葉を伴う。
だから、相手の言葉それ自体を奪うことができれば、争いにおいては相当に強い。そしてこの特殊なルールのゆえに強い人というのはそこら中にいるのである。
だいたい、ある組織において強い者は、その強さをこの特殊なルールに拠っている。
そうでないと思うなら、相手から言葉を奪うのを止めてみればよい。たいして能力もない人間が、相手の言葉を封じることもなく勝ち続けることなどそうはない。
「私は相手の言葉を奪ってなどいない」という発言も、ただルールを明示的に認識することができていないというだけのことだったりするので、もうちょっと自己反省を深めてみてくださいねという話にしかならない。
あなたは言葉を奪われていないだろうか。虐げられていないか。
あなたがいつも争いにおいて勝てないのだとすれば、それはあなたが構造的に勝てない仕組みのなかで争っているからだろう。あなたがルールをいつも奪われて、奪い返すための発現が封じられているからだろう。
私はこのような窮屈さをここのところよく感じていたのである。
なまじ抽象的な概念まで言語化できるがゆえに、人一倍はっきり感じていたのである。それが私の敗北の日々である。
同じような意味で日々負けている人はたくさんいることと思う。
負けは負けである。
だが、ある意味それでよいのだ。それは健全なことなのだ、と私は思う。
一方が言葉を奪い、一方が奪われる、そういう社会はなぜ生じるのか。
これに対する答えとしては、そのような在り方が社会として合理的だからだ、というものでしかありえないだろう。
要するに、争いを毎度毎度まじめに裁定するのは大変だ、ということである。
人間、殴り合うにしても罵り合うにしてもだいたいの人は能力的に同じくらいだから、毎回ちゃんと争わせていたら日ごと年ごとにヒエラルキーが変動する。そういう社会は不安定である。
社会はある程度安定的であるほうがよい。そのためにも争いはある程度茶番であるほうがよい。そのほうが合理的だ。
茶番に混ざれないほど認識能力がズレている奴は、ズレている奴でも理解できるようなルールの上で排除される。
するとルールを理解できる奴だけが残る。この残った奴らは、言葉の自由を奪われた現行ルールのもとで自由に発言したりしない。
ここで負けが決まるのである。
負ける者はルールブックを読んだ瞬間に負けを知る。空気を読んだ瞬間に負けてしまうのである。
空気の読めない人間であれば、少なくともこのような負け方はしない。
だがいずれにしても負けるだろう。空気の読めない人間に対するルールを用意することなど造作もない。
かくして敗者は構造的に生み出される。敗者の存在によって社会は安定する。
それゆえに、敗者ほど「役に立っている」存在はない。弱い者は強い者より役に立っている。
同じようなことを昔ヘーゲルが主張した。「主人と奴隷の弁証法」という有名な話である。
主人は奴隷をこき使うことができるが、主人は実際に何も生み出さない。奴隷の生産したものをただ消費することができるだけだ。主人は、奴隷がいなければ自分一人では何ものでもない、と気づく。
だから、弱い人よ、あなたは役に立っているのだ。その負けは無駄じゃないのだ。というのが本稿の結論なのかというと、そんな気は毛頭ない。
むしろ逆である。
ここまでの話を理解できたなら、マクロな合理性のためにミクロな個人が犠牲にならなければならないということはよく分かるはずだ(というかそんなことはみんな知っているのだが)。
弱者であることは社会にとって大変にありがたいことだ。
だが、それで喜んで弱者に甘んじる者はどこかおかしい。
「役に立ちたい」と口で言う人は多いが、それなら私は言おう、「弱者になりなさい」。
負け続けることを望みもしないで、しかし人の役には立ちたいというのはおかしな話だ。だが、これがおかしな話だというのは過去さんざんやってるのでここではやらない。
これは弱者を慰めるための記事ではない。
世界に対して勝ちに行くための記事である。そうでなければならない。
日々は争いである。争いは勝つためのものだ。
社会的に負けるのは仕方がない。世界が私に負けることを望んだのだ。
だが、同時に私はその世界という奴をちゃんとこのように認識している。ここで語ったように、そのシステムを把握している。そうして睨み返す。
そこから、勝つための争いを始めるのである。