2022-08-12から1日間の記事一覧
それなりに久しぶりなので、このブログの日記的な側面をまず先に充足しておくこととする。日記的な側面? そんな側面あっただろうか。ともかく最近について。 閉塞感、が、ある。日々、頭を使わない。それは、まあ、よい。視野が、狭まってゆく。それも、ま…
A. 最も簡単な定式化 “物事を正しく認識することが善さである” これだけだと、あぁまぁそうだね、合ってんじゃない?で終わってしまいかねない。正しい認識は間違った認識よりはいいだろう。正しいからな。 だがしかし、正しい認識は「いい」だけでなく「善…
仕事がはかどらないとする。それは私のせいではない。仕事のせいだ、敢えて言えば。だって、「仕事が」はかどらない、と言うじゃないか。はかどらないのは仕事である。もし私が原因ではかどらないのだとすれば、「私が仕事をはかどらない」とかそういう言い…
薄々感づかれているかもしれないが、私の頭はもう長らく人文学的・思想的・宗教的な放射線を強く浴び続けてきたため、もはや不可逆であるほどの変質を被っている。 いやいや、そんなに長いこと従事してきたわけではないだろう、たかが数年だ(まだ十年にも満…
愛的・好き的感情というものは気まぐれであって、しかしこれが特別気まぐれであるように見えるのは、むしろ私たちの願望のせいである。 この感情が本物であってほしい、不変のものであってほしいという願望が、かえって好き的感情を不必要なプレッシャーのも…
私たちは常に正しい。常に必然的な仕方で在る。が、それにも関わらず、私たちは正しく在らなければならない。常に正しく在るのに、正しく在らなければならない。 どういうことやねん。 しかし、これが単純に「どういうことやねん」となる訳ではない人という…
なるようになり、またなるようにしかならない 人事を尽くして天命を待つ、という。 私は、なぜ君は人事を尽くすのですか、と疑問に思う。 なるようになるということの本質は、なるように「なる」というところだ。なるように「する」ことでは全くない。 なに…
自分のことを嫌いという人がいるが、そういう人に限って自分というものをがっちり掴んで離さないものだ。嫌いなら離れればよかろうに、と思うのだがそういうわけにもいかないらしい。 また逆に、自分のことを自慢げに話す人は、自分のことが好きなのだと自他…
謝りたくなる心の弱さ 人として、どうしても謝りたくなる時がある。わかる。 また別に謝りたくないけど謝らないといけないときもある。 謝るというのは極めて倫理的な行為のように見える。私が、私の人格(人格が倫理の舞台である)について非を認めるから謝…
孤独の時代 人は倫理的には孤独である、という主題について考えてみたい。 これは現代的なテーマであるような気がする。 今の日本に哲学があるかどうかといわれると、即座には回答できない。その質問の含み次第で回答が変わってくるだろう。だがすべての時代…
いい人だとか悪い人だとかいう言い方について。 人について(人の人間性、その中心となる部分を以下「人格」と呼びます)、それがいいとか悪いとかあるのでしょうか。このように問うとすぐにある種の極端な事例を考え出す人がいるかもしれませんが、たとえば…
私がよいと思うものをよいとするのは決して悪いことではないように思われる。が、これは一見してそう思われるだけで、よいものはよいとしてそれで収まるとして、それでは悪いものは悪い、遠ざけよう、そのようにすることもまた問題ないのであるか。 私が悪い…
電車に乗るとき私はいつも判断力の鈍る感じがします。 あまりに秩序だったものを目にすると、思考するということが一定以上できなくなるようです。つい反乱でも起こしたくなりますね。こんな状況で反乱というものがあり得るとすれば、それは反乱の先に何かを…
当為の非存在(ニヒリズム)のこと。 道徳的・倫理的原則のことを当為と呼びます。当為、すなわち私たちが何を為すべきかということに関する真偽は、それがあるとすれば、何を基準にしているのでしょうか。一つの解答は、通常の理性が立ち入ることのできない…
こういうドヤ顔が好きでない。こういう仕方で無駄に自信満々になることが善いことか。この手の情報を求める人は結局はこのドヤ顔を追い求めているのかもしれない。 能力。なんだろうか。よい人材を目指すとは「よく使われる」ことを目指すことだ。人材であれ…
Apology is something ethical. It has no certain meaning but it surely expresses something. Some nay say it expresses emotions, emotion of the guilt. But apology is almost meaningless when it is merely expressed, and we clearly know that we…
ある文化は良く、ある文化は悪いなどということはない、 ということはない。 ある価値観が優れており、あるものは劣っているなどということはない、 ということはない。 確かにある価値の規定の中でのみ良いや悪いが問題になりうると言えるかもしれない。あ…
知識というのは一般的である。一般的というのは、「誰にだってわかる」ということだ。 原理的には誰にだってわかるものだけが知識と呼ばれうるので、私にしか分からないような何かは「狂気」として分類される。 そもそも私というのが一般的なのである。私に…
どうにも彼には予告なく仕事を放棄する癖があるので、彼はまるでそれを放棄するその時のためだけに仕事をしているかのようであった。 仕事を投げ出すのはどんな時か、と言っても決まっていない。どんな理由によるのか、と聞くのはさらに野暮である。あらゆる…
別の記事を書いていたら脱線してしまったのだが、元の話題とあまりにかけ離れてしまったので独立して出すことにした。 社会的な振る舞いの多くは演技だ、という話である。「演技」とは何か。第一義にはおそらく役者が舞台上でなす振る舞いのことだろう。しか…
けっこう前になる先日、「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」というテーマの哲学カフェが行われた。 それに行ってきたので、そのテーマについて自分なりに言いたいことを書いてやろうって思っていたのだが、前回は哲学カフェそのものについてしゃべるだけ…
けっこう前になる先日、「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」というテーマの哲学カフェが行われた。 哲学カフェというイベントはご存じの方はご存じだろうが、哲学的トークの社交場のようなものである。別に哲学という専門的な領域についてよく知っている…
普通に思われているような「思考」が果たして本当にあるかどうかという話は、性質抜きにして実在し続ける「実体」というものが果たしてあるのかどうかという話と似ている。 たとえばBerkeleyが「人知原理論」で展開しているような話は、実際はこの世界に素朴…
八月末、一本論文を書いた。 人文学系、といってもいろいろあるけども、の学問の方法論というのはなかなか曖昧だったりする。 それは学問の本質というか対象によりかなりの程度決定されるものなのかもしれない。他の学問だと、対象がこういうものであれば通…
私は自分と約束するというのは苦手である。と書いてみたところで、たぶんみんな苦手なんじゃないかと思うに至った。みんな苦手に違いない。そう仮定することにする。 (みんな苦手なんだと思うと、それなら自分はもしかしたら苦手じゃないかも知れないという…
楽観からくる失敗に、見積もりが甘くなるというものがある。 楽観的なのは明らかにいい面も悪い面もあり、しかし概して楽観性のいい面は何物にも代えがたい、対してそのネガティブな側面は教育によって手なずけることが可能なように見える。とすると楽観人間…
自分の現在で精いっぱい。 手を伸ばせば届くものを追いかけ続けていたら手を伸ばしっぱなしになってしまう。ずっと伸ばしていれば手は伸びる、とかいう人がいるかもしれないが、そしたらさらに遠くに伸ばすだけだろう。 私の基本姿勢は手を下に伸ばしている…
娯楽というものが一体何なのかについて考えている。 娯楽に時間を費やしすぎているように思われるのである。このように思われるとき、娯楽というのはその効用以上に払う対価が大きいように感じられているものだ。 だが一般に、娯楽に時間を費やすのはよいこ…
実りある注意を与え,相手が間違っていることを示すには,相手がどの側面から事柄を見ているかを観察しなければならない.なぜならその側面から見れば,たいていは相手の考えが正しいからだ.そして相手にそのことを認めてやり,その上で,それが間違ってい…