【復刻】倫理3 ナルシストを極めよ

 

自分のことを嫌いという人がいるが、そういう人に限って自分というものをがっちり掴んで離さないものだ。嫌いなら離れればよかろうに、と思うのだがそういうわけにもいかないらしい。

 

また逆に、自分のことを自慢げに話す人は、自分のことが好きなのだと自他共に認めているかも知れないけれど、自分を好きでいる仕方が必死なので「好きだ」というより「好きでいたい」とか「好きでいなくちゃ」と思っているのではなかろうか、と思われる。

 

 

★★★

 

 

どちらも、絶望しているのだ。「絶望」、いい概念を覚えてしまった。キルケゴール死に至る病』、ぜひ読んでほしい。

およそ絶望していない人などいないが、自己自身というものについて考えを巡らすと私たちは途端にあからさまな仕方で絶望してしまう。「私は絶望したりなどしない」という人は、そう言った途端に自分の言ったことが疑わしくなって絶望してしまう。

絶望しかない、世の中。

 

およそ、自己愛というものはやばい。これはまぁかなりやばい。ある人によると、自己愛というのは根源悪である。中島義道『悪について』。

 

 

★★★

 

 

自分のことを好きだとか嫌いだとかいうことが有意味であるかのように取り沙汰される。ことによっては「自分のことを好きになる方法」などと言って、まるで自分のことを好きでいるのが良いことであるかのように宣伝させたりもする。

自分が嫌いとか好きとか言う人たちの間に、どれほどの違いがあるだろうか?

好きという人も嫌いという人も、同じ穴のムジナである。自分というものが分裂しているのだから。

 

好き嫌いというのも無責任なもので、好きと嫌いとは最も遠く隔たっているのではない。むしろ両者が互いに接近して、ギリギリのところで見極めようとすればするだけ、強く好きになったり嫌いになったりする。それだけよく見極めようとするのは自分がとても強く関心を持つものに限られる。

だから、好きと嫌いとは肉薄しているし、とても好きととても嫌いとはもっと肉薄している。だから、賢い私たちは好き嫌いを判断の根拠にしたりしないほうがいい、たとえ恋愛事に関してであっても。

 

自分が分裂しているというのは、あっちに分裂した自分、こっちに分裂した自分を見てる自分がいるということだ。もちろんそんなことは起こり得ないのでこの図式はどこかおかしいのだが、自分について何かを思う、セルフイメージを持つ、というのはこのおかしな構図の上でのみ語りうることだ。

そう考えると、いまは世の中をあげて自己の分裂を促進している。それによってまた気づかずに絶望している人も数え切れないほどである。

 

分裂は、しかし、必然的である。絶望していない人間というものはいない。

本当にストロングな仕方で自分を肯定するためには、何かと理由をつけて「自分を好きになる方法」を実践しても仕方がない。分裂が進むばかりだ。

自分が好きとか嫌いとかいう境地を抜け出なければいけない。本物のナルシストはそこからしか生まれない。必死になって自慢話をするような人はまだまだナルシストとしてはにわかである。

 

 

2018.10.14