9/30のパンセ

 

日記である。

 

このように正しく語ることを許された世界の断片からの、世界像の投影。

 

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選ばれてあること

 

 

選ばれてある者はただ下落すればよい

それが特別な者の道である。

 

私は私自身を選ばれてあると信じていない。

その代わりに、他の誰に対しても選ばれてあると思っていない。

誰も選ばれていない。

 

選ばれたような人間に出会ったことがない。

 

(人は、選ばれる必要などない。というのはまた別の話。)

 

自意識の肥大した人間は、それはそれで幸福である。

自意識なんてそんなに簡単に肥大するものか。

私を飲み込むほどに肥大することなどそうそう考えられない。

 

私を律してくれればよいのだ。

偽物の神でもよいのだ。

なぜって、私はいずれにしても律されなければならないからだ。

偽物の神に律されるか、はたまた本物の神に律されるかは問題ではない。

どちらもいずれにしても神だからだ。

 

偽物の神とは自己欺瞞のことである。

自己を欺くもの、自己に対して偽るものが、偽物の神を招来する。

 

偽物の神はよくできたものである。

どれほど懸命に作り上げられたものか、その精巧さを見ればわかる。

その機能するのを見ればわかる。

他律を与えるという所業をまねるのは並大抵ではない。

「いずれにしても神」なのだ。

 

私は選ばれていない。

人は選ばれる必要などない。

選ばれるということの全くない次元で人は生きている。

 

だから、「選ばれてあることの云々」というのは全くのほら話である。

 

選ばれてある者が下落するのか、下落するものが神を見るのか

 

上にいる者たちは神を見ているか

選ばれているか

「その門」は彼らの前に開くか

 

選ばれることは簡単だ、と言える

あるいは、選ばれないことを貫くことに比べれば、と

 

選ばれなかった者の平凡な死、

それが難しいと言っている

そこにあること、あり続けることが難しい

 

そして死ぬまでいなければならない。

そういう覚悟が存在しなければならない、一度死ななければならない

 

選ばれないことを知る者でありたい

これがアンサーである。

 

誰も選ばれない。

 

地獄でも笑えるんだぜ

ユーモアがその境地に導く

 

意志について考えてはならない

意志は今どうしているかと尋ねてはならない

私には知る必要のないことだからだ。

知る必要のないことを尋ねるのは選ばれて云々を気にかけているからだ

 

小さな幸運に喜び、小さな躓きに嘆く。

それをどこかで羨ましいと思っている

羨ましいか、ねたんでみろ

私の小さなハッピーがどれだけ私を動かすか、

小さな壁にどれだけ深くうろたえるか、みろ。

これほど真剣なアトラクションはそうはない。

 

私はこのままでよいのだ、と知る

このタイミングで知る

 

私らしいではないか

らしいではないか

 

らしさはそれぞれにある

らしさがなければ個体がない

個体がなくても別に困らないのでは、というのはその通りだろうが、ともかくあるからある

 

最高だ!私は

哲学を知る者である

祈りを文章に乗せる者である。

 

そうであろうか

選ばれてあるらしさではないか

 

喜びは刹那的でなければならない

 

刹那とは非時間的である

時間のうちで観測している限り、決して見ることのできないものである

この出来事のあとに喜びがあったと誰かが言うとしよう、

そして瞬間瞬間を巻き戻しながら、その間に生じたすべての出来事を観測するとしよう

喜びが生じたとされるその瞬間には、なにも起こっていないのだ

何も起こっていない

 

喜びとは非時間的なものであり、刹那的なものだからだ。

刹那とは思い出すこともできないもの、

純粋な痕跡であり、

それでいてRealityそのものだ。

 

刹那的なものについて、

時間的な捉え方を連続で用いすぎているのだ

 

刹那のうちに、つまり痕跡のうちに世界がある。

それは世界の痕跡ではなく、世界だ、

そして痕跡のうちで私たちは生きている。

 

刹那的なもの

 

次に何が起こるか、

どう繋がるか、

その心配を越えなければならない

たしかにものは繋がっていく、それは見事なさまである。

だがそうではない。

 

喜びがそうなら、悲しみもそうなのか

悲しみは時間的である。

悲しみは実体ではない、影である。

 

刹那的な悲しみは、あるとすれば、美しさの象徴である

それは悲しくない。喜びであるはずだ

悦ばしい美しさであるだろう

 

考えるということを時間的に行う者は悲しみの友である。

刹那のうちに考えるものは喜びの従者である。

 

私はまじめである、私は考えるのが得意である、云々。

それが悲しみの素である

こう言わなければならない。

私は嘆くのが好きだ、悲しみを知らない者は知っているものよりも不幸だ、云々。

 

刹那を信仰しなければならない

それを考えることはできない。

考えることは本質ではない、影は実体ではない