日々の争い

 

日々は、争いである。

 

争いは生活の必然である。なぜなら、時間の持続とは長すぎるからである。

どれほどの時間の持続であっても、それは長すぎる。長すぎるので、そこでは争いが生まれる。

この説が本当かどうか、あるいは争わない方法があるのかどうか、そういうことは考えるに値しない。

日々が争いであると認識されたときから、日々は争いなのである。争いになるのである。

 

これは、私がそんな争いに負けたようでいて実は負けたとは限らないという、そんな話。

 

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争いにおいて核となる概念がある。それが「ルール」である。

争いはルールをめぐって行われる。

 

ルールとはなにか。それは「争いの優劣を決するための共通理解」である。

 

ルールを巡って展開されるのが争いであるから、そこには二つの極端な形式がある。

一つが「ゲーム」と呼ばれるべきもの、もう一つが「殺し」である。

ゲームとは、「ルールが固定されていて変化することがない」と信じられているような争いである。言い換えれば、「ルールが変わらないこと」がルールとして認められているような特殊な争いである。

ルールというのが相互の共通認識である以上、それが不変であるというのは幻想にすぎないので、本当にルールが不変であるとするとそれはそこにもはやルールがないということを意味する。すなわち、厳密な意味におけるゲームは、もしそのようなものが存在するとすれば、もはや争いではない。ある事象の境界線それ自体はその事象の要素に含まれない。

「殺し」とは、相手方の消滅である。ここでもまた、「相互の共通理解」であるルールが消滅している。よって、殺すことも厳密な意味においては争いではない。もっとも、相手を殺す直前まではそれは争いでありうるわけだから、殺しのなんらか本質と言えるようなものは相手の絶命にあると言えるだろう。

通常、ゲームや人殺しというのは争いの一種典型的なものだと見做されているが、これらは実は争いの極端な形なのである。

 

通常の争いは、このような極端な形はとらない。それでは、日常的な争いとはどのような形をとるのか。

パッと聞いただけでは理解しにくい話かもしれないが、争いにおいては、状況と同じくらいルールそれ自体も奪い合うことになる。

むしろ、ルールの奪い合いこそが主たる戦場であるような争いも多い。

 

事実状況がまったく変わらなくても、ルールが変わるだけで優劣が変化することがある。

ルールとは、その状況をみて双方が優劣をどのように決めているかという共通の認識なのだから、当然である。

ある状況において、自分に非があると思っていれば自分は負けているのだし、その後で実は相手方の指示の出し方が不適切であったのだと分かれば自分は優位に立つ。

 

言葉は認識を形成する。言葉によって、私たちはお互いの認識を共通のものとする。

ただし、言葉は明示的にルールを示すわけではない。明示的にルールを示すことはおそらく本来不可能なのではないかと思う。それはまるでルールというものが不変であるという想定が信じられているかのようだ。

私たちは争いにおいて言葉を使ってルールを奪い合う。

合意するふりをして一言付け足すことによって、ルールを微調整して自分の優位を守ったりする。

 

言葉は真実によって律されているから、争いに勝ちたいと思うならば、あるいは社会的生き物として強くありたいと思うならば(こう思わない者はただの馬鹿なのだが)誠実に生きるのがよい、と思う。真面目に生きるのがよいと思う。

ただし、重要なことであるが、どれくらい真面目になれるかというのはその人の能力であるから、真面目になろう誠実になろうと思うだけではほとんど何の役にも立たない。

 

私たちの日常的な争いは、おおかたルールの奪い合いである。

そしてルールは言葉によって合意される認識からなる。だから私たちの争いは言葉を伴う。

だから、相手の言葉それ自体を奪うことができれば、争いにおいては相当に強い。そしてこの特殊なルールのゆえに強い人というのはそこら中にいるのである。

 

だいたい、ある組織において強い者は、その強さをこの特殊なルールに拠っている。

そうでないと思うなら、相手から言葉を奪うのを止めてみればよい。たいして能力もない人間が、相手の言葉を封じることもなく勝ち続けることなどそうはない。

「私は相手の言葉を奪ってなどいない」という発言も、ただルールを明示的に認識することができていないというだけのことだったりするので、もうちょっと自己反省を深めてみてくださいねという話にしかならない。

 

あなたは言葉を奪われていないだろうか。虐げられていないか。

あなたがいつも争いにおいて勝てないのだとすれば、それはあなたが構造的に勝てない仕組みのなかで争っているからだろう。あなたがルールをいつも奪われて、奪い返すための発現が封じられているからだろう。

 

私はこのような窮屈さをここのところよく感じていたのである。

なまじ抽象的な概念まで言語化できるがゆえに、人一倍はっきり感じていたのである。それが私の敗北の日々である。

同じような意味で日々負けている人はたくさんいることと思う。

 

負けは負けである。

だが、ある意味それでよいのだ。それは健全なことなのだ、と私は思う。

 

一方が言葉を奪い、一方が奪われる、そういう社会はなぜ生じるのか。

これに対する答えとしては、そのような在り方が社会として合理的だからだ、というものでしかありえないだろう。

要するに、争いを毎度毎度まじめに裁定するのは大変だ、ということである。

人間、殴り合うにしても罵り合うにしてもだいたいの人は能力的に同じくらいだから、毎回ちゃんと争わせていたら日ごと年ごとにヒエラルキーが変動する。そういう社会は不安定である。

社会はある程度安定的であるほうがよい。そのためにも争いはある程度茶番であるほうがよい。そのほうが合理的だ。

 

茶番に混ざれないほど認識能力がズレている奴は、ズレている奴でも理解できるようなルールの上で排除される。

するとルールを理解できる奴だけが残る。この残った奴らは、言葉の自由を奪われた現行ルールのもとで自由に発言したりしない。

ここで負けが決まるのである。

負ける者はルールブックを読んだ瞬間に負けを知る。空気を読んだ瞬間に負けてしまうのである。

 

空気の読めない人間であれば、少なくともこのような負け方はしない。

だがいずれにしても負けるだろう。空気の読めない人間に対するルールを用意することなど造作もない。

 

かくして敗者は構造的に生み出される。敗者の存在によって社会は安定する。

それゆえに、敗者ほど「役に立っている」存在はない。弱い者は強い者より役に立っている。

 

同じようなことを昔ヘーゲルが主張した。「主人と奴隷の弁証法」という有名な話である。

主人は奴隷をこき使うことができるが、主人は実際に何も生み出さない。奴隷の生産したものをただ消費することができるだけだ。主人は、奴隷がいなければ自分一人では何ものでもない、と気づく。

 

だから、弱い人よ、あなたは役に立っているのだ。その負けは無駄じゃないのだ。というのが本稿の結論なのかというと、そんな気は毛頭ない。

むしろ逆である。

ここまでの話を理解できたなら、マクロな合理性のためにミクロな個人が犠牲にならなければならないということはよく分かるはずだ(というかそんなことはみんな知っているのだが)。

弱者であることは社会にとって大変にありがたいことだ。

 

だが、それで喜んで弱者に甘んじる者はどこかおかしい。

「役に立ちたい」と口で言う人は多いが、それなら私は言おう、「弱者になりなさい」。

負け続けることを望みもしないで、しかし人の役には立ちたいというのはおかしな話だ。だが、これがおかしな話だというのは過去さんざんやってるのでここではやらない。

 

これは弱者を慰めるための記事ではない。

世界に対して勝ちに行くための記事である。そうでなければならない。

日々は争いである。争いは勝つためのものだ。

 

社会的に負けるのは仕方がない。世界が私に負けることを望んだのだ。

だが、同時に私はその世界という奴をちゃんとこのように認識している。ここで語ったように、そのシステムを把握している。そうして睨み返す。

そこから、勝つための争いを始めるのである。

 

 

9/30のパンセ

 

日記である。

 

このように正しく語ることを許された世界の断片からの、世界像の投影。

 

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選ばれてあること

 

 

選ばれてある者はただ下落すればよい

それが特別な者の道である。

 

私は私自身を選ばれてあると信じていない。

その代わりに、他の誰に対しても選ばれてあると思っていない。

誰も選ばれていない。

 

選ばれたような人間に出会ったことがない。

 

(人は、選ばれる必要などない。というのはまた別の話。)

 

自意識の肥大した人間は、それはそれで幸福である。

自意識なんてそんなに簡単に肥大するものか。

私を飲み込むほどに肥大することなどそうそう考えられない。

 

私を律してくれればよいのだ。

偽物の神でもよいのだ。

なぜって、私はいずれにしても律されなければならないからだ。

偽物の神に律されるか、はたまた本物の神に律されるかは問題ではない。

どちらもいずれにしても神だからだ。

 

偽物の神とは自己欺瞞のことである。

自己を欺くもの、自己に対して偽るものが、偽物の神を招来する。

 

偽物の神はよくできたものである。

どれほど懸命に作り上げられたものか、その精巧さを見ればわかる。

その機能するのを見ればわかる。

他律を与えるという所業をまねるのは並大抵ではない。

「いずれにしても神」なのだ。

 

私は選ばれていない。

人は選ばれる必要などない。

選ばれるということの全くない次元で人は生きている。

 

だから、「選ばれてあることの云々」というのは全くのほら話である。

 

選ばれてある者が下落するのか、下落するものが神を見るのか

 

上にいる者たちは神を見ているか

選ばれているか

「その門」は彼らの前に開くか

 

選ばれることは簡単だ、と言える

あるいは、選ばれないことを貫くことに比べれば、と

 

選ばれなかった者の平凡な死、

それが難しいと言っている

そこにあること、あり続けることが難しい

 

そして死ぬまでいなければならない。

そういう覚悟が存在しなければならない、一度死ななければならない

 

選ばれないことを知る者でありたい

これがアンサーである。

 

誰も選ばれない。

 

地獄でも笑えるんだぜ

ユーモアがその境地に導く

 

意志について考えてはならない

意志は今どうしているかと尋ねてはならない

私には知る必要のないことだからだ。

知る必要のないことを尋ねるのは選ばれて云々を気にかけているからだ

 

小さな幸運に喜び、小さな躓きに嘆く。

それをどこかで羨ましいと思っている

羨ましいか、ねたんでみろ

私の小さなハッピーがどれだけ私を動かすか、

小さな壁にどれだけ深くうろたえるか、みろ。

これほど真剣なアトラクションはそうはない。

 

私はこのままでよいのだ、と知る

このタイミングで知る

 

私らしいではないか

らしいではないか

 

らしさはそれぞれにある

らしさがなければ個体がない

個体がなくても別に困らないのでは、というのはその通りだろうが、ともかくあるからある

 

最高だ!私は

哲学を知る者である

祈りを文章に乗せる者である。

 

そうであろうか

選ばれてあるらしさではないか

 

喜びは刹那的でなければならない

 

刹那とは非時間的である

時間のうちで観測している限り、決して見ることのできないものである

この出来事のあとに喜びがあったと誰かが言うとしよう、

そして瞬間瞬間を巻き戻しながら、その間に生じたすべての出来事を観測するとしよう

喜びが生じたとされるその瞬間には、なにも起こっていないのだ

何も起こっていない

 

喜びとは非時間的なものであり、刹那的なものだからだ。

刹那とは思い出すこともできないもの、

純粋な痕跡であり、

それでいてRealityそのものだ。

 

刹那的なものについて、

時間的な捉え方を連続で用いすぎているのだ

 

刹那のうちに、つまり痕跡のうちに世界がある。

それは世界の痕跡ではなく、世界だ、

そして痕跡のうちで私たちは生きている。

 

刹那的なもの

 

次に何が起こるか、

どう繋がるか、

その心配を越えなければならない

たしかにものは繋がっていく、それは見事なさまである。

だがそうではない。

 

喜びがそうなら、悲しみもそうなのか

悲しみは時間的である。

悲しみは実体ではない、影である。

 

刹那的な悲しみは、あるとすれば、美しさの象徴である

それは悲しくない。喜びであるはずだ

悦ばしい美しさであるだろう

 

考えるということを時間的に行う者は悲しみの友である。

刹那のうちに考えるものは喜びの従者である。

 

私はまじめである、私は考えるのが得意である、云々。

それが悲しみの素である

こう言わなければならない。

私は嘆くのが好きだ、悲しみを知らない者は知っているものよりも不幸だ、云々。

 

刹那を信仰しなければならない

それを考えることはできない。

考えることは本質ではない、影は実体ではない

 

 

 

花と花と花のくに【短編戯曲】

 

◎人物

 

 

◎舞台

細長い通路のような舞台、両サイドに客席。

 

 

 

《女が片方の端に立って花を売っている。男は反対の端で椅子に座っている。》

 

女 お花、いりませんか?……あの、お花、買ってくださいませんか?……買ってくださいませんか?

 

《男、立ち上がる。》

《女に近づく。》

 

女 あの、お花、いりませんか?お花…

男 これはこれは、美しいお花をみすぼらしい方が売っていらっしゃる

女 すみません、あの、お花、買ってくださいませんか?よろしければ……。おひとつからでも……。

男 続けて

女 え?……あの……

男 いつもどおりに

女 あの、お花、いりませんか?ぜひ……。きれいですよ、飾ったら……

男 ……

女 あの…

男 これは、どこの花ですか?

女 あ、はい。これが、(花の説明。すべて外国の花)

男 ずいぶん、珍しいものを売ってらっしゃるんですね

女 あ、はい。ありがとうございます

男 全部、いただきましょう

女 え?全部?

男 全部。あなたが、今、売ろうとしている花、全部私が買いましょう

女 あの、よろしいのですか?

男 この国にはほとんど花がありません。内陸国ですから海もない。かろうじて北のほうに縦長の林が広がっているくらいで、自然らしい自然はほとんど何もない。国一番の広葉樹林はジェームズ氏の庭園だという話です。嘆かわしい現状だと思いませんか?

女 あ、はい…

男 ……

女 あの、…そうですね

男 そしてこの国の女性はみな美しい。しかも美しいばかりでなく優しい。しかしきっと彼女らは花なんてものをほとんど知らないでしょう。…あなたは、自分に自信がないのに違いない。さもなければこんなほこり臭い裏通りで花を売ったりはしないはずだ。ただ、そんなあなたではありますが、花を売るという目的に関しては、成功したわけですね。今日のところは。いくらになりますか?全部で

女 あ、はい。えと…。200…840と1500と

男 2340

女 はい。あと、310と

男 2650

女 ありがとうございます。えと、400と。640円で

男 3690円

女 ですね。ありがとうございます

男 いえいえ、こちらこそ。私なら、そうですね。少なくともこれを5000円で売ることができます

女 あ、売るんですか?

男 ええ、売りますよ

女 あ、そうですか

男 がっかりですか?…(5000円取り出して)おつり、いただけます?

女 はい、お預かりします。…そうですね、少し、驚いてしまいましたけど

男 この国の女性はみな優しくて美しい。なぜだと思います?…はい、どうも。ああ、あの、籠ごと売っていただけませんか?

女 え、籠ごと、ですか?

男 ええ、もちろん籠も買い取らせていただきますが。1000円でどうでしょう?その籠

女 あ、でも、これは

男 大切なものですか?どなたかの形見とか?

女 いえ、別にそういうものじゃないんですけど、

男 あなたの付けているその髪飾りも、併せて買い取りたいのですが…。(1000円取り出す)これと、これを合わせて

女 え?これですか?

男 はい、そうです

女 えと、どうしてですか?

男 それも、大切なものですか?さっきのと合わせて6000円、決して損する話じゃないはずですよ。ご主人か、お母様か分かりませんが、喜ばれるんじゃないですか?

女 まぁ、そうでしょうけど。確かに

男 なんなら、このお金はあなたのものにしてしまったっていい。それくらい神様だって見逃してくれますよ。これで、なんでも好きな髪飾りだって買えますし、籠も新しいものにできますし

女 あの、よろしいのですか?そんな、価値のあるものじゃないんですけど

男 ええ、かまいません

女 あ、じゃあ

男 買い取らせていただいても?

女 はい。(髪飾りを外す)どうぞ

男 籠の、一番下に入れてください

女 はい

男 ……

女 ……あの、

男 この国の女性は嫉妬をしないそうです(客席を見回す)

女 はぁ(同じく見回す)

男 この国の女性はみな優しくて美しい

女 ええ

男 そして本物の花というものをほとんど知らない

女 そうですね

男 だから嫉妬しないんでしょうね

女 えっと、どういうことです?

男 どうされますか?そのお金

女 あ、はい。母に、あの、母が、お店のほうにいるんですけど、母にちゃんと渡そうと思います

男 ああ、そうですか

女 それが、一番いいですよね?

男 それは、あなたが決めることです

女 あの、本当にありがとうございました。母も喜ぶと思います

男 そうして、あなたは明日もここで花を売るわけですね?

女 え?ええ

男 そんな恰好では表通りで売るわけにもいきませんからね

女 はい。こんな場所では売れないってことは分かるんですけど、

男 しかし、意外と裏通りにも人はたくさんいますよ。意外と、見られているものですよ

女 え?そうですか?(見回す)

男 ね、そうでしょう?

女 いえ、そうでしょうか?

男 そして、全部売れるまで帰れない?

女 いえ、八時になったら帰ってもいいんです。夜は、やっぱり危ないから

男 今日は、少し早く帰れるというわけですね

女 ええ、おかげさまで

男 もし勇気がおありなら、少し表通りを通って帰ったらいかがです?今日は

女 え?それは、どうして?

男 いえ、なんでも。……では、またいつか

 

《男、振り向いて歩き出す。》

《男、客席の女性たちに「お似合いですよ」と言いながら花を配る。》

《配り終えると、部屋のドアから外に出ていく。》

 

 

 

【復刻】新時代に思うこと

 

 

新時代については、私は希望を抱いている。

 

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今日は日本が戦後二番目に低い投票率を記録した参院選からちょうど一週間が経過したところである。とりあえず依然として自民党が強いということらしい。だが自民党に理想的な政党としての在り方を重ねてみている人はおそらくいない。隙だらけなのである。

人は言う。このような国家の在り方をしているのは対外的に恥ずかしいことだと。だがこのような政党を作り出したのは紛れもない日本の国民なのだと。内外で様々な問題を抱えているにも拘らずこのような低水準の投票率をたたき出してしまう国民なのだと。くだらないことには熱を出して知りたがるくせに大事なことには無関心でいる民度が問題なのだと。

 

最近のくだらない話と言えば、よしもとの闇営業の話題である。ほとんど私とは関係のない話なので、おそらく同様にほとんどあなたとも関係のない話だったことだろう。最近よしもとのお笑いライブを見に行って、そのあとでこの話題が急騰しだしたのだが、私が考えたことと言えばせいぜいお笑いライブ面白かったけどもう見に行くのやめようかな、いやでもあんまり関係ないか、というくらいである。私が個人的に興味を持ったのは、「一番悪いのは詐欺グループ。そこと金銭授受があったことが問題なんだったら、会場を貸したホテルも裁けよ」という同じ主張をウーマンラッシュアワー村本か言ったときには馬鹿にしたような反応が、メンタリストDaigoが言ったときには賛同するような反応がネット上で見られたことである。

人は言う。メディアは本当に重要な情報である詐欺グループの話題や参院選にリソースを割かず、どうでもいいよしもと所属の芸人個人にスポットライトを当てた報道ばかりしていると。だがこうした報道がなされるのはこういう報道のほうが結局金になるからであると。こういう報道が金になるのはその受け取り手の関心のあり方に起因するのだと。だから結局民衆の問題なのだと。

 

国民の教養や関心のあり方に問題があるのは、全面的にではなくとも少なくとも部分的には教育制度に問題があるからだと言われる。大学入試の英語の試験をTOEICやTOFLEやIELTSなどの既存の英語力検定試験で代用するという方針があるらしい。入試の在り方に関しては、どれがいいのかよくないのかいまだよく分からないうちからころころ方針を変更しすぎている印象がある。教育現場は多忙さを増している。ローカルなコミュニティが失われたことによる負担はほとんど家庭と学校へ振り向けられる。しかし家庭もミニマル化が進み、三人家族という在り方は普通である。家庭が人倫として以前よりよく機能するとは考えられないから、結局公的な機関であり最後のセーフティネットたる学校に負担が行く。それでも今ほど学校がよく機能しているのはさすがと言うべきだろう。知能水準の低下というが、学校のせいばかりではない。家庭で賢くなる契機を全く持たない子がちゃんと賢くなれようはずもないのだ。

人は言う。文科省は現場を全く考慮していないと。すべての対策は失敗であり、その失敗を隠すための対策が今も延々となされているに過ぎないと。だがそれならせめて自分たちの子供くらいちゃんと育ててみろと。いや、それは私たちには難しいと。それは難しいから、学校と文科省のせいにさせてくれと。

 

もうこの国は終わりなので、海外に逃亡しよう。研究の分野では、最近は賢い若者たちは海外に進出しようというモチベーションが高いらしい。国内ではまともに研究費がもらえないから、またポストも縮小傾向にあるから。するとおかしなことに、これが他のいろいろな分野でも正しい道だと考える人たちが出てくる。賢い人の選択は正しいのか。テレビなどで見るある種の東大崇拝からも感じられる通り、深刻な知的コンプレックスに陥っている人間は少なくない。どうしても賢くなければ生きることは許されないと考えるのだろう。それで情報リテラシーが別段高くもないのにきちんと世情をわきまえているつもりでいる人の中には海外に行こうという動機が高まってくる。「英語力」というバカ丸出しの概念がコンプレックスとともに流通するのも結局これらの概念をcoinする世間がリテラシーを発揮しているというよりただ情報に流されているからだろう。多くの人にとって今一番鍛えるべき語学力は「日本語力」だ。語学力が即座に外国語力を意味する現状は謎である。私たちには第一言語への反省がない。それがないならないでいいが、少なくとも昔の日本には母国語で最先端の思想と文化と技術と研究と衛生と政治制度と建築技術と数学と社会福祉とにアクセスできるようにしようという情熱があったのであって、そんな先人たちの理想に思いを馳せることもなく、軽々しく私のいるべき場所は日本じゃないなどと言うことは私にはできない。

人は言う。私のやりたいことは海外のほうがやりやすいと。幸い英語は中学から数年間はやっているので、あとはセブ島に3ヶ月行けばしゃべれるようになるからと。この国にいても未来は見えないからと。

 

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繰り返し言うが、私は新時代には希望を抱いている。

 

一色登希彦による漫画版『日本沈没』は異論を待たない不朽の名作であるが、その最終15巻で中田博士は次のような旨をいう。「君は確かに沈みゆく日本を救った。だが現実のこの日本は沈まないがゆえに、なかったことにしてしまいたいあれこれを無にしてしまうこともできない。」フィクションの中で、セリフとしてこれを言うのだからとんでもない。私たちの誰もが素朴に抱えている「日本に沈没してもらいたい」という気持ちをズバリ指摘する発言である。

日本沈没』は(少なくとも漫画版は)「日本が沈没する、その過程ですべてが(まさに私たちがこの日常に感じているのと同じモヤモヤが)上手いことリセットされてくれる、そして最終的には日本人は列島からの脱出に成功する」という、プロットだけ見れば世間が歓迎しそうなお話だが、決してそこには収まろうとしないところが素晴らしい。上のような安易なプロットに収めたいためのポイントの一つは、上に挙げたようなメタ発言である。ストーリーのなかで、めでたしめでたし、となったタイミングで「だが現実のこの日本は沈まないがゆえに…」と来る。第二のポイントは、ストーリーが最終的に「世界沈没」で幕を閉じるという点である。私たちとしては、日本人が無事脱出して世界に飛び出して、世界である程度認知される活動に従事するということで民族的同一性を保てている状態、そこでストーリーが終わってくれるほうがいいのに、この作者はわざわざ世界沈没まで持っていってしまうのだ。

安易で平和でめでたしめでたしな結末に持っていくのは、優しいようでいて優しくない。私たちは今も変わらず「日本に沈没してほしい」という願望を抱いているが、安易で平和なプロットはただその願望にかこつけて漫画の発行部数を狙うだけの、意義を持たない作品になってしまうだろう。中田博士が「だが現実の日本は沈まないがゆえに…」というメタ発言をしなかった場合、私たちは現実の日本が沈まないことをつい忘れてしまう。そして現実の嫌なこと、凝り固まった政治体制や堕落したメディア、機能しない教育、それらと常に相対的にある私たち自身、そんな嫌なことを一気に解決してくれる事態に希望を見出す。だが現実はそうはなっていない。いずれこの全リセット型の希望は嘘だということを見出す。そうすると、どこに希望があるのか…。安易で平和なプロットは、嘘の希望を売りつけてしまうので優しくないのである。

 

ちょっとずつでも、良くしていこう。

この選挙のときにも、ここでみんなが投票すれば世相を変えられるという声があちこちにあった。私たちができることをすれば、ちょっとずつ変化を生み出していける。だが今回の選挙に関してはこのような声はうまく反響しなかったようだ。それは投票率の低さで示されている。

私としては、さもありなんと感じる。私が正義を憎んでいたり、行動するのを面倒くさがるというわけではないのだが、ちょっとずつ良くしていこうという考えにほとんど希望を感じないのである。

現実においては、正義は不正義によって活かされている。穿った見方だと言われるのを厭わず言えば、この世にはいじめられっ子に自殺してほしいと願う人たちがただ一種類だけ存在する。いじめられっ子を守ろうとする団体の人々である。彼らは昨年度何百人の児童がいじめを苦にして自殺したと述べる。それが一人や二人なら、彼らは次に不登校児童の数を述べる、あるいは相談件数を述べる。それらがいずれも1件とか2件なら、彼らの存在意義はないわけだ。人は存在意義を欲する。殺人事件の目撃者という意義が欲しくて殺人現場をかき乱すという悪事を為す滑稽な人物が東野圭吾のどれかの短編集に描かれているが、これは人間心理の自然な露出であり、この人物を他人事として笑えないのは明らかである。だが、いじめられっ子を守ろうという人々に、その存在意義と引き換えに「本当に」いじめがなくなってくれることを望むかと尋ねる必要がないのは救いだ。現実のこのいじめは無くならないがゆえに、である。他の正義についても然り。それが注目され、賛同され、称賛されるとき、それは不正義に活かされている。

だからといって正義を否定するわけではない、というのは繰り返しになってしまうので言わないが、私が正義を少しでも実現しようという声に今のところ希望を見出せないのはこの点が大きい。正義は不正義を憎むだけではだめだ。それによって自らが自分自身として在ることができていると、正しく認識しなければならない。

世に不正義が大きい時、不正義を憎むだけの声は浅はかである。あたかも、不正義を憎む自分たちだけは不正義ではないかのようだ。だがあなたたちはその同じ不正義に養分をもらっているのではないか。

じゃあどうしろというのか。それを人に聞くのはお門違いだというものだ。いみじくも考えることのできる存在として在るのだと自覚しているならば、考えて選択する自由と同時に、考えても分からないことから逃れられない不自由も背負わなければならない。どうしろというのか、それを自問するのが考えることのできる存在である。

 

今は、反省を深めよう。

これが私の抱く新時代の希望である。私たちは衰退していくかもしれない。ゆっくりと沈んでいくかもしれない。田辺元の『懺悔道としての哲学』なんて読んだことのある人はほとんどいないと思うが、否定的な自己反省の果てに私たちはどうしようもない状況に至り、懺悔する。懺悔することで救われたいから、懺悔する、初めは。しかしこれは本当の懺悔じゃないので、救いはやってこない。いよいよ救われようと藻掻く自我も失せて、無心のうちに懺悔をする。そうして初めて救われる。そういう救いがあるように感じる。もちろん、それまで何もしなくてよい、ただ待っていればよいというものでもない。だが、何をすればいいというのか、こんな時代に。

ひどい時代である。衰退しているのは明白な事実である。緩やかな沈没。そして私は緩やかな沈没に飲み込まれればいいじゃないかというのである。ひどい時代だ。

もはや、希望は、ない。

 

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新時代の希望を語り終えるにあたって、私はこの国の借金だけが心配である。こればかりはどうにかしなければならないことのように感じる、が、実際はどうなのだろう。

 

 

2019.07.29

【復刻】弱者のフリという悪徳

 

書かねばならない!私はそう思ったのだった。

 

弱いフリをする人というのはどこにも一定数いる。

いつも俯いていて、話しかけられたらビクッとする人とか。

 

 

 

今日は、最近の世の中を賑わせ続けているこの話題について。

なに?賑わせていない?いやいや、めっちゃ賑わせてるよ。賑わせ続けているよ。

 

よく見てほしい。そこら中にいるんだ、弱ぶる奴が。

 

弱いフリをする奴は本当に悪い奴だ。

これは、きっぱり「悪い」と言っていい。というか言いたい。

 

「弱いフリ」をするというのは、弱いこととは違う。

「私は弱いです」と周りにメッセージを送ることだ。

 

あなたがもし弱いとき、困ったとき、悩んでいるとき、あなたがやることは「弱いフリ」をすることではない。とにかく自分の身を守ることだ。

そのためにはいくら周りを利用してもよい(「弱いから利用してもいい」のではない。もともとあなたにとっての他人とはそういうものなのである)。

 

弱ぶるって、なんだ?

 

 

弱いフリをする人は、弱いフリによってなにを言ってきているのか?

結論だけ先に言うと、彼ら/彼女らの発しているメッセージはこういうものである。

 

「私は、ご覧の通り、こんなに弱い。こんなに傷ついている。こんなに無力だ。

こんなに弱いから、あなたは私を攻撃してはならない。

こんなに傷ついているのは、あなたが私を攻め立てたからにほかならない。

こんなに無力なのは、あなたが今も私から力能を奪っているからにほかならない。」

 

こんなに容赦のない攻撃は、私はほかにほとんど知らない。「お前のせいだぞ、こんなに傷ついてるのは」なんて、攻撃以外の何でもない。

攻撃が容赦ないだけでなく、守りも怠らない。「お前はこれ以上俺を攻撃してはならない」と言うからだ。

 

 

 

 

私は、「弱いフリ」はとても悪いことであると思っている。

だが、「弱いフリ」をすること自体は、嫌だとは思っていない。弱ぶるのも時としては必要である。

 

たとえば、マイノリティは実際に強いか弱いかでいえば弱いわけだし、そういう人たちは声をあげるべきだ。そうでないと、問題は見えてすらこないだろう。

そういう時に、弱者としてのメッセージを発することは、もし必然的でないとしても、それ以外のなによりも効果的なのは間違いないだろう。だから、積極的に、戦略としての「弱いフリ」をすればいいと思う。

 

だが、「必要だ」ということと「悪くない」こととは違う。

弱いフリをする人は、どんな事情であれ、みんな道徳的に悪いことをやっているのだ。私が一番嫌なのは、弱ぶるくせに正しい顔をする人たちだ。

 

そして、なぜか知らないが、弱いフリをするほとんどの人は、自分が正義みたいな顔をしている。

次弱ぶってる人を見かけたら、よく見てみてほしい。たぶん、自分のこと正義だと思ってる。

 

マイノリティのほうでも話は同じだ。

フェミニズム運動でもLGBTの主張でもなんでもいいが、ともかく彼らは正義は自分たちにあるといった顔をしている。

それはそうなんだろう、だいたいの場合。

そして、彼らはおそらくマジョリティの不正義によって抑圧されてきたのだろう。

だが、なぜそこで自分たちが道徳的正しさでマジョリティに立ち向かっていると考えるのか。

なぜ、「相手が悪いことやって来たから自分らも悪いことをやり返します」と素直に認めないのか。

 

繰り返すが、主張が世の中に必要であることと、「弱ぶる」ことの悪とは別の問題だ。

 

本当に正義を振りかざしたいなら、弱ぶってはいけない。「弱い我々はお前たちの悪行を非難するが、お前たちは弱い我々にさらに攻撃を加えるなどという非道なことはしてくれるな」なんていうアンフェアな主張をすべきではない。

正義を貫くためには、まず強くあることが求められる。

 

それが、望んだような帰結を得られないのなら、悪くなるしかない。

「ああ、悪いことやってるなぁ」と思いながら、「でも、こうするしかねぇんだよ…」と呟いて、好きなだけ弱いフリをすればいい。

悪いことをしているという自覚はすべて自分に返ってくるだろう。決して気持ちよくなってはいけない。

 

なぜ、抑圧されながら、さらにそんな自責の念まで負わなければならないのか?

そんなことは、私は知らない。

誰かが望めば、責め苦の量がだいたいみんな同じようになるものなのか?そういう公平性が世界に保たれていると誰かが教えてくれたことがあったか?そもそも疑問の出所がおかしくないか?

 

 

2018.02.06

【復刻】思想家として生きる、という

 

思想家として生きよう、というのはとんでもない空疎な生き方だ。

 

人生というのはいつか終わり何もなくなるので負けが確定しているゲームのようだが、よく考えてみると何もなかったところから始まってもいるので勝ちでしかないゲームのようにも見える。しかし思想家は負ける。あらゆる人間の持つ思想家的側面は必ず負ける。負けるというのは、それが言ったこと、望んだことは必ず叶わない、ということだ。

 

思想は最終的に負けることになっている。「人間はか弱いけれども思考する葦だ」故に偉大だ、というのは信じない。同じく思想家が言っているのだからそんなセリフ全然だめだ、信用ならない。といって思想家でない人間が同じことを言ったって信じないけれども。

もちろんただの慰めに尽きるというわけではない。なぜ必ず負けなければならないのか、本当に必ず負けるのか。それを考えてみて、納得して負けるのはまだましである。何も考えず、何も知らないで負けるよりかは。しかし、そもそもそういう信条自体が、負けることのうちに含まれているのだ。そんな信条自体が自分自身による慰めでしかない。

だからといって思想家的な態度を持たないことが潔いわけではない。どんな人だってふとした時に永遠なるものを求めてしまいがちであり、ああこれが人生の意味だ、とか、この人への愛は絶対だ、とか真面目な顔して考えたりするものだ。その人生の意味やその愛は初めから敗北なのであり、思想家が味わうのと全く同じ種類の敗北である。

 

救いは宗教に求められるべきか。そんなはずはない。

考えても勝ち方が分からないから考えるのをやめます。それで勝てるようになるわけがない。

ある一つの宗教に固執するのはその人が全く真の意味で宗教性を持っていない、宗教的センスのない人間であることを示している。そういう人間が疑わしく思えるのは当然なので、現代の日本におけるように宗教にハマりこんでいる人を訝しげにみるというのも正当性のないことではない。

信じるというのは、究極的な意味では、理性の外側を目指すということだ。「疑いません」ではない、「疑いえません」である。「疑いません」というのは思考停止を宣言する人としての情けなさの露呈であるが、「疑いえません」というのは人間の誉れであるところの反省力の旺盛な活動を示している。もちろん、何かを疑いえないということを宣言するのには無限の時間が必要であるため、「疑いえません」と誰かが実際に言ったとしたら、『もっと疑ってみたまえ』と返さなければならない。この究極的な意味で何かを信じるとき、人はもはや「これこれのことを」信じている、とは言えなくなるのである。

このように、信仰を本質とする宗教はそもそも理性による徹底的な反省を前提としている。それ抜きでいきなり宗教に身を投げ出しても何も救われたりすることはない。といっても、この徹底的な反省は長い時間を要すると考えられるべきではない。一瞬でも真に誠実な人間となることができれば、信仰の境地に至ることはできると考えるべきだろう。なぜなら、この疑いえないものはどんな時でもつねに私たちの近くに存在するからである。エックハルトに言わせれば、それは「私たち自身よりも」私たちの近くにある、ということになる。

 

…宗教の話はおいておこう。思想家として生きるということが主題なのだった。

思想家として生きるというのは空疎であり糞である。それゆえにやってみる価値もあろうというものだ。

人生の意味は人それぞれです、というと希望があるような気もするが、人それぞれだと言っていいほどどうでもいいものだということでもある。どうでもいいと言って問題があれば、根拠のないものだということである。

 

 

2018.10.26

 

【復刻】感性、超越者

 

感性的なもののうちには常に感情が含まれているのか。感性的なもの、感性とは低次の認識能力である。低次と言ってもそれは捉え方によるのであって、これと比べて高次の認識能とされる概念を用いた思考などでは、芸術なんかは捉えられないと言われる。芸術の本質は捉えられないと言われる。だから芸術が倫理的に大事だと思われるところでは感性は低次な認識能ではなく、むしろ概念的思考以上に高次だとみなされることもある。

 

それじゃあ人間には感性的認識と概念的認識と、二つがあるのか。二つなんてない。明らかにそこにあるのは認識、一つだけである。

認識を導くのは真理である。認識は、効率的な仕方で統制されているのでなければならない。さもなければ自己反省すら生じることはないだろう。あるものを判然と認識するとき、ある作品の前で時間を忘れるとき、その認識は真理に即している。

そうだとすると私たちには「真理に対する感覚」とでも呼ばれるべきものがあることになる。これは真理に即している、これは即していない、そういうことを理解できるのでなければならない。と言うときに不思議な感じがするのが、この「真理に対する感覚」が何なのかという疑問をつい抱いてしまうことだ。明らかに、目の前に現前と存在しているのはこの感覚だけなのであり、むしろ目の前に一度も現れたことのないのは「真理」のほうである。真理とは何なのか、と問うのに反省が必要になるほど、私たちは真理を信じている。

私たちは真理とは何かを知っている、もし「私たち」のうちに、自分たちに属する「真理に対する感覚」を含めるのであれば。もしそれを含めるならば、私たちは真理を所有している。なぜなら、この感覚だけが真理を知っているのであり、それは私たちのうちにあるのだから。万事うまく機能している状態にあって、神が「いて」なお神の代弁者だけが神の言葉を伝えるような場合と、神が実は「おらず」それでも神の代弁者が神の言葉を伝える場合と、これら二つの場合を私たちは区別することができない。ここではもちろんのこと、万事うまく機能しているという前提が大事である。

つまりどういうことか。二つ。真理は「真理に対する感覚」である。そして「真理に対する感覚」は超越者である。私たちは「真理に対する感覚」を感性と呼んでいる。

概念的認識をしているときでさえ、私たちは正しいと感じるほうに認識を進める。もはやこのとき私が進めているという感じはない、勝手にそうなる。概念的認識のうちにも感性が働いているからである。

 

 

2019.06.25