【復刻】思想家として生きる、という

 

思想家として生きよう、というのはとんでもない空疎な生き方だ。

 

人生というのはいつか終わり何もなくなるので負けが確定しているゲームのようだが、よく考えてみると何もなかったところから始まってもいるので勝ちでしかないゲームのようにも見える。しかし思想家は負ける。あらゆる人間の持つ思想家的側面は必ず負ける。負けるというのは、それが言ったこと、望んだことは必ず叶わない、ということだ。

 

思想は最終的に負けることになっている。「人間はか弱いけれども思考する葦だ」故に偉大だ、というのは信じない。同じく思想家が言っているのだからそんなセリフ全然だめだ、信用ならない。といって思想家でない人間が同じことを言ったって信じないけれども。

もちろんただの慰めに尽きるというわけではない。なぜ必ず負けなければならないのか、本当に必ず負けるのか。それを考えてみて、納得して負けるのはまだましである。何も考えず、何も知らないで負けるよりかは。しかし、そもそもそういう信条自体が、負けることのうちに含まれているのだ。そんな信条自体が自分自身による慰めでしかない。

だからといって思想家的な態度を持たないことが潔いわけではない。どんな人だってふとした時に永遠なるものを求めてしまいがちであり、ああこれが人生の意味だ、とか、この人への愛は絶対だ、とか真面目な顔して考えたりするものだ。その人生の意味やその愛は初めから敗北なのであり、思想家が味わうのと全く同じ種類の敗北である。

 

救いは宗教に求められるべきか。そんなはずはない。

考えても勝ち方が分からないから考えるのをやめます。それで勝てるようになるわけがない。

ある一つの宗教に固執するのはその人が全く真の意味で宗教性を持っていない、宗教的センスのない人間であることを示している。そういう人間が疑わしく思えるのは当然なので、現代の日本におけるように宗教にハマりこんでいる人を訝しげにみるというのも正当性のないことではない。

信じるというのは、究極的な意味では、理性の外側を目指すということだ。「疑いません」ではない、「疑いえません」である。「疑いません」というのは思考停止を宣言する人としての情けなさの露呈であるが、「疑いえません」というのは人間の誉れであるところの反省力の旺盛な活動を示している。もちろん、何かを疑いえないということを宣言するのには無限の時間が必要であるため、「疑いえません」と誰かが実際に言ったとしたら、『もっと疑ってみたまえ』と返さなければならない。この究極的な意味で何かを信じるとき、人はもはや「これこれのことを」信じている、とは言えなくなるのである。

このように、信仰を本質とする宗教はそもそも理性による徹底的な反省を前提としている。それ抜きでいきなり宗教に身を投げ出しても何も救われたりすることはない。といっても、この徹底的な反省は長い時間を要すると考えられるべきではない。一瞬でも真に誠実な人間となることができれば、信仰の境地に至ることはできると考えるべきだろう。なぜなら、この疑いえないものはどんな時でもつねに私たちの近くに存在するからである。エックハルトに言わせれば、それは「私たち自身よりも」私たちの近くにある、ということになる。

 

…宗教の話はおいておこう。思想家として生きるということが主題なのだった。

思想家として生きるというのは空疎であり糞である。それゆえにやってみる価値もあろうというものだ。

人生の意味は人それぞれです、というと希望があるような気もするが、人それぞれだと言っていいほどどうでもいいものだということでもある。どうでもいいと言って問題があれば、根拠のないものだということである。

 

 

2018.10.26