【復刻】感性、超越者

 

感性的なもののうちには常に感情が含まれているのか。感性的なもの、感性とは低次の認識能力である。低次と言ってもそれは捉え方によるのであって、これと比べて高次の認識能とされる概念を用いた思考などでは、芸術なんかは捉えられないと言われる。芸術の本質は捉えられないと言われる。だから芸術が倫理的に大事だと思われるところでは感性は低次な認識能ではなく、むしろ概念的思考以上に高次だとみなされることもある。

 

それじゃあ人間には感性的認識と概念的認識と、二つがあるのか。二つなんてない。明らかにそこにあるのは認識、一つだけである。

認識を導くのは真理である。認識は、効率的な仕方で統制されているのでなければならない。さもなければ自己反省すら生じることはないだろう。あるものを判然と認識するとき、ある作品の前で時間を忘れるとき、その認識は真理に即している。

そうだとすると私たちには「真理に対する感覚」とでも呼ばれるべきものがあることになる。これは真理に即している、これは即していない、そういうことを理解できるのでなければならない。と言うときに不思議な感じがするのが、この「真理に対する感覚」が何なのかという疑問をつい抱いてしまうことだ。明らかに、目の前に現前と存在しているのはこの感覚だけなのであり、むしろ目の前に一度も現れたことのないのは「真理」のほうである。真理とは何なのか、と問うのに反省が必要になるほど、私たちは真理を信じている。

私たちは真理とは何かを知っている、もし「私たち」のうちに、自分たちに属する「真理に対する感覚」を含めるのであれば。もしそれを含めるならば、私たちは真理を所有している。なぜなら、この感覚だけが真理を知っているのであり、それは私たちのうちにあるのだから。万事うまく機能している状態にあって、神が「いて」なお神の代弁者だけが神の言葉を伝えるような場合と、神が実は「おらず」それでも神の代弁者が神の言葉を伝える場合と、これら二つの場合を私たちは区別することができない。ここではもちろんのこと、万事うまく機能しているという前提が大事である。

つまりどういうことか。二つ。真理は「真理に対する感覚」である。そして「真理に対する感覚」は超越者である。私たちは「真理に対する感覚」を感性と呼んでいる。

概念的認識をしているときでさえ、私たちは正しいと感じるほうに認識を進める。もはやこのとき私が進めているという感じはない、勝手にそうなる。概念的認識のうちにも感性が働いているからである。

 

 

2019.06.25