【復刻】『なぜこの世界には私しか存在しない(かもしれない)のか』対話のためのノート

 

この世界に私だけしか存在していない、などということはない。

 

 

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世界に私だけが存在する、というこの事実を「独我論」と呼ぶことはできない。

ただ一度きりのたまたまの事実に過ぎないものを、「論」と名付けて一般的なものに変えようとするとき、この事実が持つ真実性すべてが失われてしまうだろう。

独我論というものならば、誰だって同じように信じることができよう。そして、いかなる独我論も真実ではない。だから、もはやそれに価値はない。

 

それにもかかわらず、事実として、世界に私だけが存在するということは揺るがない。

代替不可能な仕方で、私にとって妥当する真実であり、これが他の誰かに、たとえばあなたに、同じように妥当するということはあり得ない。なぜなら、あなたは存在していないからだ。

 

 

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私はこうした事実の一切を、私自身に向かって証言し続けている。

 

私はこの事実を信じている。

信じることは、世界に対する祈りのようなものである。

 

世界が本当にそうであったときに、そうだと知っていたということを述べるために

 

およそ真実を語ろうとする欲求はすべてこの種類の祈りである。

真理に使える者たちのただ一つの義務があるとすれば、誠実に真実を語ろうと努めることがそれであろう。

なぜ、このような義務があるのか。

世界がそうであったときに、それを知っていたことを認めてもらうためだ。

世界がある日、くるりと反転してその本当の姿を現す時があるかもしれない。その時に、ただ驚くだけでは信心があるとは認められない。その時にすでに世界の本当を知っているのでなければならない。

もちろんそんな日は来ない。世界はくるりと反転したりしない。

それでも、あたかもその日が来るかのように、明日にでも来るかのように、待たなければならない。

 

 

2020.10.06