【復刻】書いた

 

八月末、一本論文を書いた。

人文学系、といってもいろいろあるけども、の学問の方法論というのはなかなか曖昧だったりする。

それは学問の本質というか対象によりかなりの程度決定されるものなのかもしれない。他の学問だと、対象がこういうものであれば通常こういった方法で研究が仕上がる、というような定型が出来上がっているようなものもある。とは言えそういう場合でも、その定型を用いていれば万事大丈夫ということでは全然なく、常に方法論には思考を傾ける必要がある。

学問の方法論を決定するのは、問いだ。といっても、問いが直接に方法論を与えるというのではなく、問いは即座に解答を与える。そしてこの解答が、自身が表現される仕方を選ぶ。これが方法である。

 

よいものを書きたいという願望は、熟練の書き手ならばどうなのか分からないが、少なくとも私のような未熟な書き手にとっては大きな障壁となりうる。まず、この願望が私を力強くするということはあまりない。それどころか、よく書きたい願望は書かれるべき対象と本質的なつながりを持たないので、この願望に気を使う分書くべき対象から目を逸らすことになる。

実は未熟な書き手は、その願望とは裏腹にあまりよく書きたいとは思っていない。彼の意志は書くということを通して自身を実現する道を見出していない。だから、よく書きたい願望は書き手が真剣に対象に立ち向かうことを妨げるが、実は書き手がそうしてもらうことを望んでいるのだ。書き手は何かに妨げてもらいたい。そんなに書きたいとは思っていないからだ。生来の書き手というものがいるのかどうか知らないが、私は、こうしていろいろ書きながらも、書きたくないという意志が強い。子供の頃は読書感想文なんかもいやいや書いたし、ほとんどの場合下書きもなしにいきなり書き始めて読み返すこともなかった。ちなみに学部生の頃、学期末レポートで一度これをやったら単位をもらえなかった。書きたいと思わないのは仕方がない。なぜなら、何かを生み出すのは喜びであり、悲しみである、これは矛盾ではない。喜びであるのは、善いものが生まれてくるからだ。善いものでなければ、なぜわざわざ生み出したりするだろうか。悲しみであるのは、悪いものだからだ。「この世界は可能な限り最も善い世界であり、そこではすべてのものは必然的に悪い」(Bradley, AR, xiv)。

そういうわけで、よいものを書きたいという願望と、よいものを書くこととは、別物なのである。よく考えたいと思うこと言うことと、よく考えることとは別物。よく考えたいとかみんなはあんまり自分の頭でものを考えないとかちゃんと考えてみるとかいうセリフは多く世にあれど、それはよく考えることへと通じる魔法ではない。こういう願望は、他人や自分に見せびらかして、他人も自分もだますためのものだ。

 

よく書くにはよく考えることが必要だ。ここでのよさは、正しさのことだと考えている。考えるとはどういうことなのか。いろいろな(不正確な)言い方が可能だが、一つの表現では、考えるとは問いに場を貸すということだ。

よくある図式だと、私たちは問いに対して向き合って、その答えを探すということになっているが、これは一つの理解の仕方に過ぎない。これは一つの形而上学的な仮説だ。みんな素朴に信じているから、これは形而上学的ではなく、端的な事実であるかのように感じているけれども、形而上学的な仮説は他の仮説と違って「事実」というステータスを得ることはない。私たちは問いに対峙するのではない、イケイケな見習い形而上学者たる私はそう言いたい。

問いってなんだ。問い自体は、ここでは本物の問いを問題にしているのだが、問い自体は判明な仕方では認識不可能なものだ。しかし存在する。明確には捉えられないが、しかし認識はされる。ここの判明さには程度があって、すごく判明な場合とすごくよく分からない場合とがある。林のなかを歩いていたら黒い影が動くのが見えたので追ってみたら若い男の幽霊だった、なぁんだ幽霊だったのかはっはっは。こういう場合に判明さが変化する。動く黒い影が見えたとき、いくつかの問いでない認識と一緒に、問いも現れる。追って行って幽霊だったと分かったとき認識は判明になる。

だから、認識の仕方によって問いと答えとを区別することができる。むしろ、問いと答えとはこの度合いの違いのみによって区別される。広い意味では私たちは問いも答えも認識できるが、狭い意味では答えしか認識できない。狭い意味では、問いは答えを常に伴う、というのも答えがあるとき、私たちはそれが何に対する答えなのかも同時に知るからだ。問いのない純粋な答えも、答えのない純粋な問いもあり得ない。純粋な答えというものは、判明に認識されていても意味をなさない。そこに問いがなければ、この答えが何を主張しているのかを知ることができない。また答えのない問いも、それだけでは心に現れることができないので、同様に不可能である。問いは、それが部分的に答えでもあるからこそ、心のなかに現れることができるのだ。

問いがこういうものだとしたら、数学の難しい問題や、現在の30代女性の未婚率などは問いではないのか、という話になるが、これはその通りなのであって、これらは問いではない。少なくとも上の意味で言えば、これらは本物の問いではない。本物の問いはどこにだって潜んでいて、何を見つめ続けていても現れてくる可能性があるものだが、これら数学の問題や統計的な事実の問題なんかは、鉱脈のようなものである。本物の問いがそこにあるだろうと期待されて見つめ続けられるような運命にある。

 

よく書く、正しく書く、とは。

問いは、私たちの心のうちで、認識の網をくぐり抜け、ひとりでに戯れる。これは私たちの知性の及ばない不思議な現象だ。というのも、わざわざ心の中で戯れてくれなくてもよかっただろうからだ。ともあれ、こうして心の中で問いを遊ばせておくのが、考えるということだ。観察者である私たちは、常に認識の網を手に待ち構えている。しかし網を使うのは、適切なタイミングでなければならない。また、本来問いではないものを問いであるかのように扱って、心の中で自由に戯れるのを待つのは、別の種類の間違ったやり方である(上で述べた間違った図式は、このやり方を推奨している)。問いの本質は、どんなものかまだ知られていないというところにある。一度捕まえて解剖したものは、再び自由に飛び回るということはない。

正しく考えることができれば、それを表現する方法は自然と決定される。その規定に従うのが、よく書くということなのだろう。

 

と、まぁ論文を書いてみてこういうことを考えるに至った。方法論に意識的でなければいけないということを言いたかったのだけど、正しく考えさえすれば方法もおのずと明らかになるから問題ないのだという主張に落ち着いてしまった。確かにそれはその通りなのだろうが…

ちなみにその論文の主題は、直観において私たちの心のなかでどんなことが起こっているのかというものだった。直観された表象が心の中で自由に戯れるのは、感性的(ästhetisch)理念の力によるのだが、感性的理念は直観の原理であるばかりでなく、思考一般を導く原理だと考えてよい。考えてよいのだが、論文ではそこまで主張できてはいない。

 

2019.09.03