【復刻】自分との約束を守れないあなたに贈る

 

 

私は自分と約束するというのは苦手である。と書いてみたところで、たぶんみんな苦手なんじゃないかと思うに至った。みんな苦手に違いない。そう仮定することにする。

(みんな苦手なんだと思うと、それなら自分はもしかしたら苦手じゃないかも知れないという訳の分からない論理によって克服できるような気がしてくる。天邪鬼の論理。)

 

なぜ人は自分との約束が好きでないのか。次のように述べることは間違いである。

自分と約束するというのは未来の行動を過去の一時点が束縛することだと言えるわけだが、過去の自分は未来の自分が何をしたいと考えているかなんて知りえない状態なのに束縛を課したわけで、さらに過去の自分はすでに過去に消え去ってしまっているから何の負い目も受けることはない、それでいてその約束が果たされたときには、それを実行したのはこの今の自分なのに、過去の自分がその約束の素晴らしさ、先見の明の誉れに浴することになるようで、つまり過去の自分にとってノーリスク・サムリターンな行いだと少なくとも今の自分には思われるわけだが、約束というのはフェアなものでなければならない、約束というのは責任を負う代わりに相手からも何か与えてもらえると期待することができる、もしくは自分が悪いことをした場合なんかには反省と自戒の意味を込めてある約束を遂行することで相手から赦しを得られるという場合もあるが、要するに約束というのはそもそも実行のモチベーションが相手に依存しているように思われるわけで、そうなるともういなくなってしまって今の自分に何も与えることのできない、買っておいたチョコレートくらいしか与えることのできない過去の自分との約束なんかどうして果たそうという気持ちになるのか、チョコレートくらいいつでも買えるのだし、そういう考えになってしまうのは無理からぬことなり。というのが自分との約束の分析論である。

分析論というのはテーマがあってそのテーマに関してトピックが与えられているときに、そのトピックの当該テーマにとってレレバントな特徴を浮き彫りにするためにトピックを解体するという手法で、探究の手始めに行なわれることが多い。

 

しかしこの分析は修正を加えられる必要がある。

過去の自分と未来の自分とが約束しようとするとき、よく正しくは過去の自分が未来の自分に対して約束しようというとき、上で述べたのは「未来の自分から見てその約束がいかにアンフェアで押し付けられたもののように感じられるか」だが、

重要なのは、私のように自分と約束をするのが好きでない人間は「過去の自分によって課せられた約束」が嫌いなのではなく、そもそも「未来の自分と約束を交わすこと」が嫌いなのだ。

未来の自分視点で約束が嫌いなのではなくて、過去の自分視点で約束が嫌いなのだ。

上の分析は未来の自分の側から状況を眺めた分析だったが、本当は過去の側から分析しなければならない。

 

自分との約束が好きでないと言っているのは、すでに約束を課された側の自分ではない、これから課そうという自分である。その自分が、上の分析論に見られたように、あたかも「未来の自分が嫌だろうから」と、未来の視点を先取りして否定的な見解を述べている。

これはおかしい。それじゃあ過去の側にいる私には特に何も嫌だと思われる点はないということか。

いや、そんなはずはない。自分との約束という行為を拒否しようとしているのは紛れもなくこの過去の側の自分なのだから。なんなら、上の分析は過去の自分が先取した未来の自分の視点でしかなく、実際の未来の自分はあのようには考えないだろう。

実際、いざ自分と約束してみると、その約束が嫌だと感じるどころか、むしろやる気を与える追い風になってくれるように感じることのほうが多いはずである。

 

自分と約束してしまうと約束を課された未来の自分がいい気持ちがしないだろう、だから自分は自分と約束しないでおこう。こうやってあたかも自身にはネガティブな理由は何一つないかのような顔をして、その実嫌いで仕方がない自分に約束を課すという行為を避ける口実を得ることができる。自分が自分を誤魔化すということの典型的な例である。

だから、半端な分析はむしろ誤魔化しを強化する方向に働いてしまう。

相手がされると嫌なことをするのは嫌なものだ、たとえ相手が未来の自分であっても。こういう言い方もありえるけども、この場合に関してはほぼ説得力がない。まず、自分と約束するのは未来の自分に嫌がらせするためではなく、未来の自分のためになると思ってのことだからだ。それに、相手が本当にそれを実行するのが嫌だと思ったなら、相手はおそらく自分の判断で約束を解除するだろうということも予想がつく。

だから未来の自分を労わって約束をしないようにしているのではない。

 

それではなぜ、人は自分との約束というものが苦手か。

 

 

 

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これ、書いていて実は思った以上に大きなトピックであることが感じられてしまった。とてもまとまりそうにない話である。さらなる分析論の蓄積が必要だ。

もっと実用的な目的の本だったら、その著者に分析力があるにせよないにせよ、このくらいの話の展開だけで充分結論を導いてよいと判断するだろう。そうして、自分との約束は、約束を果たす時よりも交わす時のほうが難しいのだから、とりあえず交わしてしまえ、というようなことを言うと思う。

それはそれで一面の真理だ、ろう。けれども、私の仕事はそういう実用的なアドバイスをすることではないと自負しているので、そういうことは言わない。

実用的なアドバイスは、それが完全にとち狂っているのでない限り、ある程度は本当に生きていくうえで役に立つものだ。誰かがあることを断言してくれると、人はそれを割と信じてしまうものだし、実生活で役に立つのは実は「何を信じるか」ではなく「どのくらい強く信じるか」だったりする。そういう意味で、断言屋さんは必要なのだ。だが私はそういう点では曖昧屋さんでいきたいと思う。金にはならなさそうだが。

 

 

 

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私が自分との約束が好きでないことの背景には、私が思考の自由を強く否定する気持ちがあるからだと思う。人間は自由ではない。行動も思考も、状況とのオートマティックな相互作用でしかない。

人が「自由に」行動できたり思考できたりすると考えるのは、それらの行動や思考が無根拠に基づいていると考えることに他ならない。なぜあえて無根拠を信じなければならないのか。

世界のすべての出来事は結局は無根拠だと、極端まで行ってしまえば逆に潔い。が、行動や思考だけがそういう意味で特別だと考えるのは、とても偏った考えである。この偏りが気に入らない。気に入らないから採用しない。だから、私は人間は不自由だと信じている。

 

しかし、「人間が」不自由だというのは尚早だ。人間のすべての面が今何を為すか・今何を考えるかという局面に現れるわけではない。

思考や行動の局面は、一見して明らかなように無時間的である。今起こるその瞬間の出来事であって、時間的な幅を持たない。少なくとも、思考や行動が自由になるかと問う局面では、時間的幅を持ったものとして表象されていない。

そりゃあ不自由だという結論になるわけである。

一般に、長い時間幅を持つ事象ほど、人間の自由の影響を受けやすい。

ある程度の長さを持ったものとしてしか表象されえない対象というものは確かに存在していて、たとえば川なんかがそれである。自由も同じで、さらに言えば意志や人間そのものも本当はそのようなもので、時間的な長さを伴って思考しないと全く意味不明なものになってしまう。

 

私が自由を信じないのは、瞬間的な局面で現れる自由ばかりを考えてきたからだ。

人間は自由である。意志は持続的である。人間は時間的である。

 

 

そのことと、自分と約束することとがどう関係しているのか。

自由が時間的なものだと考えない場合、約束を課す過去の自分と履行する未来の自分とがそれぞれに判断するという大前提の上に立つことになる。このことが、今まさに自分と約束しようとしている自分にとって不安要素となるのだ。

未来の自分から判断する権利を奪ってしまえばよい。その代わり、今約束を課そうとしている自分にも判断の自由なんてない。今自分が気にしているのは「今の」自分のメリットなんかでは全くないからだ。徹頭徹尾未来の、ひいては全体としての自分のメリットを考えて約束しようとしているのである。

判断すら時間的である。自分との約束は一つの完結すべき判断である。

過去の側にも未来の側にも、単独で判断する能力は与えられていない。過去は未来を思いやり、未来は過去のために完成を目指す。

 

そういうのが時間的な自由。はい、終わり。ご清聴ありがとうございました。

この話はまだ続く、かも。

 

 

2019.06.12