【復刻】死亡前死因分析

 

楽観からくる失敗に、見積もりが甘くなるというものがある。

楽観的なのは明らかにいい面も悪い面もあり、しかし概して楽観性のいい面は何物にも代えがたい、対してそのネガティブな側面は教育によって手なずけることが可能なように見える。とすると楽観人間で生まれてきたほうがより広い可能性に開かれているということにならないだろうか。まぁ生まれに関しては、もう生まれてきてしまった以上どうすることもできない、楽観性事態を後天的に獲得できるのかもよく分からないところではある。

 

あるプロジェクトの失敗の可能性を、その主導者が楽観のために低く見積もっているかもしれないとき、それを手なずけるうまい方法があるという。ダニエル・カーネマンの“Thinking Fast & Slow”で紹介されている「死亡前死因分析」。

 

 

何か重要な決定に立ちたったとき、まだそれを正式に公表しないうちに、その決定をよく知っている人たちに集まってもらう。そして、「今が一年後だと想像してください。私たちは、先ほど決めた計画を実行しました。すると大失敗に終わりました。どんなふうに失敗したのか、5~10分でその経過を簡単にまとめてください」と頼む。

 

 

結局、イマジネーションが重要なのである。イマジネーションとは、カント哲学では対象を理解可能性のもとへと引き連れていく能力だとされている。ちなみに芸術というのは、イマジネーションは働くけれどもそれを持っていくべき場所がないような対象、認識能力が捕まえることはできるが何なのか理解はできない対象、である。そんなのはどうでもいい。

イマジネーションがどれだけ力を持っているのかを哲学的な語り口でしゃべると、たとえば「今」と「10分前」とを区別するものは何か、それはイマジネーションである(これはおそらくどこかの哲学者やどこかの縄文人が考えたことの述べ直しでしかないけれども、遺憾ながら西洋また縄文文学に広く通暁していない私としては、私自身の名のもとに考えを提示せざるを得ない)。今と10分前とを切り分けるのは他でもない、客観的に存在していてそこを流れ続けている時間だ、と言いたくなる人もいよう。それはそれで真実である。ここで真実の基準はそれが物事をよく説明できるかどうかに置かれている。しかし同様に、あなたの、また私のイマジネーションがこの区別を成り立たせているというのも真実だ。もっとも鮮明に物事が現れている状態を、そうでない状態と比較して、「今」と呼ぶ。イマジネーションが鮮明であるかどうかの違いだ。あまりに鮮明ですべてを理解できない状態が「今」だ。

ちょっと通じた人なら、たとえば永井均とかを読んでいる人なら、次の主張にもすぐについて来られるだろう。私とそれ以外の人とを区別するのもイマジネーションである。私のところでもっともイマジネーションが活発、鮮明だから、私は他の人じゃなく私なのだ。

じゃあイマジネーションって誰のものよ?私に属しているんじゃないの? 誰のものと考える必要は実はない、世界には一つのイマジネーション、というか一つの魂だけあれば十分だ。これが「独魂論」であり、現代版モニズムである。

 

死亡前死因分析に戻ろう。

これは明らかにイマジネーションを鍛える方法だ。「私」というものに狭く限定された魂から、意識的により広い魂の領域にアクセスしようとする試みである。このような思考実験だけで、ある種の行動を抑制できて、おそらくはより良い行動を選択できるのだから、面白い。

なにかプロジェクトを計画中の方はぜひお試しください。終わり。

 

2019.06.18