【復刻】生活1 幸せな日々の後で
自分の現在で精いっぱい。
手を伸ばせば届くものを追いかけ続けていたら手を伸ばしっぱなしになってしまう。ずっと伸ばしていれば手は伸びる、とかいう人がいるかもしれないが、そしたらさらに遠くに伸ばすだけだろう。
私の基本姿勢は手を下に伸ばしている、上じゃない。
無理をするなというような話じゃない。無理をするかしないか、どちらか選べるような言い方をしたら間違い。できないことはできないと知るべし。
生活に遠くの国や県のニュースは必要ない。知りたがりはいるが、みんな暇なのだ。暇なら暇だと言えばいいのに、暇だと認めるのが嫌で知らなくてもいい話を聞きたがる。
その態度たるや! 全く自分にはどうでもいいことだとわかりきっているのに、まるで重要事のようなふりをする、それは遊びに過ぎない。大人は遊びが下手だから、だんだん遊びと本当との区別がつかなくなっていく。
というようなことを、書いてはならぬ!書いてはならぬ!書いてはならぬ!
悪について書いてはならぬ!いや、善についても!
何事についても私は書いてはいけない!!この純粋な気持ちは真実である。これは真理である。この真理を思い出すためだけに今私は書こう!しかし、何事も書いてはならない!
遊びだ。これは遊びだ。さもなければ裁かれるべき大罪だ。書くことの罪深さよ。
こんなふしだらな遊びを私たち子どもがやってよいものか。遊びだと言い張っても、見つけた親は黙ってはいないだろう。
されど本気ではない。私が書く何事も遊び以上のものではない。
しゃべりたがりは生活を失ったものの末路だ。人は簡単に生活を失う。私はそれが怖い。それは苦しみと、苦しみの可能性だけでできた人生だ。
それも、脱することを思えばより深まる苦しみだ。
生活においては人はやることがある。必要に応じて生きている。
だから、たとえ引きこもりであっても、それが必要であればその人はしっかり生活をしている。そこに迷いはない。退屈もしない。
どうでもいいことばかり知りたがり足を運びたがるのは生活を失っている証拠だ。それが活動的で社交的、魅力的だということになるのだから、この社会がどれだけみんなで誤魔化し合って生きているかが分かる。みんな生活を失っている。
彼らは私が死んでも悲しくないに違いない。それなのに彼らは悲しいと「言って」くれることだろう。私はそんな自己愛に満ち満ちた欺瞞はしない。君が死んでも悲しくない。だから私は悲しいなんてどこにも誰にも発信しない。
★★★
私はなんと脆いのだろう。なんと変わりやすいのだろう。
私はその時点その時点で決定をしていくことができる、と言えば積極的な生き方のようだが、要は自分に対して約束ができないのだ。何かを決めても、次の瞬間にはその約束を疑っている。すると、よほどの根拠でもない限り約束なんて私にとってもはや何物でもない。私はそれを破るのではなく、取り消すことができる。
変わりやすく、忘れやすい。
せっかく生活の仕方を覚えたと思ったのに、次の時には忘れている。ただ言葉だけが残っている。言葉を頼りに思い出そうとするのは至難である。言葉は記憶を保持するのを大いに助けるが、記憶そのものにはならない。
私はたとえば「生活」という言葉を、その概念を覚えている。その実践を失っている。「必要性」をまだ知っている。「必然性」を。その捉え方を忘れている。「無になろう」とする、そのやり方を忘れている。
こんな生き物だ。こんな生き物だ。
一生、ああ嫌だ。こんな生き物だ。
「考えすぎるなよ。」うるせーよ!そんな言葉は役に立たねぇ!(役に立ったとしてもお前のおかげじゃねぇけどな!)
迷うことなかれ。迷うことなかれ。
全ては必然だ。俺は自由ではないのだし、俺は善良だ。どんな俺であっても素晴らしく、必要性のもとにあるのだ。それを今一度知るべし。
ああ、言葉を尽くしても生活には及ばない、及ばない!!
私がしたいのは生活だ。しゃべるうちに失うならしゃべってはならん。黙っていても失うかもしれないけどな。
2019.10.19