【復刻】宗教論4 無能裁判
私は無能であらねばならないか?
問題が切実であるから、愉快な言葉をしゃべることもできない。
しかし、愉快にしゃべれないときほどどうでもいい問題に取り組んでいるものだ、とも言えるかもしれない。君は君自身を不必要に追い込んで、大変な問題に直面しているふりをしているだけだ、と。
いやいや、そんなことを言っても仕方がない。仮にそれが正しいとして、切迫した人には問題は依然切実なままなのだ。私が私を追い込んでいるという図式を理解したってそれは変わらない。役に立たない話をするんじゃない。
…という、これらすべてが愉快でなく魅力がないのは、やはり問題が私では半ばどうしようもない問題だからだろう。
がんばっている人間は美しい、というのは嘘だ。私が現にこんなにも魅力がないじゃないか。
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さて、人生は続くのである。
どうでもいい生き方でも続く。とにかく続く。不思議なほどに。
終わらせることもできるらしい。だが、終わらせないことにはとりあえず続くというからやってられない。
ここでは自殺とか生きたくても生きられない事情というような特殊なものは考慮に入れない。自殺に関して言えば、別に生きたいから自殺しないわけでもないし、生きたくないから死ぬわけでもない。生きたいとか生きたくないとかいう言葉がそもそもよくわかっていない。私が分かっていないだけでみんなには共通了解があるのか。死にそうな事情については、多くの人がそうであるように、私にとっても切実ではない。私には死にそうな感じはない。こういうことを言うのは不道徳だろうか、配慮が足らないだろうか。そういう人とは単純に抱えている悩みが違うのであって、配慮しながらしゃべると私の問題がぶれてしまう可能性がある。確かに私なんかの悩みよりはその人の悩みのほうが大きいかもしれない、何らかの意味で。だがより大きな悩みは私が黙る理由にはならない。小さいならば悩みですらないと誰が言えるだろうか?
そして人生は続く。
私は何者かになりたくないのである。子供の頃に還りたいと言ってしまえばそういうことのような気もするが、私は有能な人間になりたくないのだ。有能であることは罪だと思われる。
世間で上手く生きるひと、何事かを遂行することができるひと、それを褒められて心から喜ぶひと、誰かのためになることをすすんで為そうとするひと、みんな有能であり、「善良な市民」であり、醜い。
なぜと言われても、そのようにしか感じられないのだから、仕方がない。そう感じられない君が(倫理的に)鈍感なだけなんじゃないの、自分の倫理的感性のなさを棚に上げて何を言っているの、と言いたくなるほどだ。
有能な人間は、どこかで自分を誤魔化さなければ生きていけない。といって誤魔化すことが彼らにとってツラいことであるとは限らない。逆に、喜びの源泉であったりもする。自分にできること、特徴、仕事、優しさ、穏やかさ、それらが彼らの自慢である。そんなのは自惚れだ、見ろ、絶えず自分と誰かを比較して些細なことに心から得意になっているじゃないか。見ろ、優しさ自体のためじゃなく、人に優しくして自分が気持ちよくなるために、そして人から優しい人間として見てもらうために優しくしているじゃないか。
そういう自惚れた人間は天国には行けない、自己自身に不誠実だから。そういう「天国」を設定することが宗教的倫理的感性を持った人間の、無能な人間の、せめてもの憂さ晴らしである。そんな天国なんぞただの憂さ晴らしではないか、それ以上のものではない、有能な人は言う。もちろん、有能な人間に理解ができないだけで、「ただの」憂さ晴らしではない。もっと普遍的な意味を持った、真理を含んだ憂さ晴らしである。
私に関して言うと、天国という考えは重要なものではない。また、特定の宗教に従ってもいないので、「神」というタームもいまいち分からず、ほとんどの場合「真理」という語で代用している。宗教者が「神のために」とか「神に誓って」と言うところを、「真理のために」「真理に照らして」などと言う。
だから、安心してほしい。私は有能な皆さんを(誰が読んでいるか知らないが、そもそも人間の99%は有能な人間、有能を目指す人間である)天国から追放しようという気はない。そういう呪いにもならない呪いをかける気はない。
ただ、有能な人間になれないとこぼすことを許されたい。人は倫理的には孤独なので、有能になれない、無能でありたい、とこぼすとき、私は一人だ。私は他の人からは有能な人間の一人とみなされていることだろう。だが許されたい、私はこう言いたいのだ。無能でありたい、そうでなければならない気がする。有能であることは罪深く、醜く、自己欺瞞に満ちており、不誠実だ。
私は全くの無能であることはできない。もしかすると人一倍自我が強いせいでその醜さも人一倍目につきやすいのかもしれない。そんなことは分からないし、分からないことを詮索しても仕方がないのだが。
仮に私が無能であることができたとする。私はなお罪深い。いまだに罪深い。私は私と同じことを悩むことなく平気で生きていくことのできる人間たちを悪い・鈍感だとけなすだろう。私は、自分のほうがましだ・倫理的に善いと思うだろう。私は、そうした比較をやめても、これだけが人間が真に善くあるための道だと考えるだろう。その道に従っている以上自分は善いと思うだろう。従えていないときでさえ、つまり自分が無能でないと分かっているときでさえ、私は少なくとも善くあることを意志できていると考えるだろう。現に無能でない分善くはないが、それでも悪くはないと考えるだろう。
これは非常な悪徳である。と思われる。キリスト教的に言えば、私は「神の恩寵のために、その見返りを期待して、すべてを捨てる者」だということになろう。それでいて全てを捨てきっているわけではないからさらに悪いわけだが、その点はいまはよい。私は本当ならただ理由もなくすべてを捨てないといけないのだ。
私はなんと小さなものを捨てたのだろう、捨てようとしたのだろう。これならば持っていても同じだ。だが持っていようという気持ちにもならない。私の人格が、私のたまたま持っているもののために褒められたり否定されたりするのは違う、と感じる。
生活は続く。それは必然的にそうである。生活が続く以上、私は「何者か」である。何者かでいたくはない。どうしよう。「自我を捨てよう。」いや今それ関係ある? 生活は続くんだよ? 明日がもうすぐ来るんだよ。
こういうのは私ではどうしようもない。
懺悔します、国民総懺悔のときだ、と1945年に言ったのが田辺元『懺悔道としての哲学』。私も懺悔するしかない。「懺悔している私は懺悔しないよりかはいくらかましだ。」ああ、駄目である、また醜い私が現れるじゃないか。懺悔してそのことに自惚れるならそれは本当の懺悔じゃない。この自惚れを懺悔しなければいけない。
このおいかけっこは絶望的だ。よろしい、絶望しなさい。しかし真に絶望的なのは、このことに本当は絶望できていない私なのだ。「それでも自分が正しく絶望できていないという絶望的な状態にいることを知っているだけ私はましなのだ。」全然ましではない。
要するに、私は私自身のことを否定することができないのだ。そのことが絶望的なのである。
確かに自力ではどうしようもない問題である。懺悔できないとしても懺悔し続けるしかない。だが、結局田辺だってしゃべっているじゃないか。倫理的なことをしゃべるべからず。倫理的な事柄は、それについて語るということそれ自体が罪である。なぜって、人は自身を否定しきれないのだから、倫理的なことをしゃべるとき、私は私を正しい人間だと考えざるを得ないからだ。「私のような愚物が…」などと謙遜を述べたところで、事柄の本性上私が私を正しいとみなしていることは変わらないのだから、謙遜は余計にズルい行為になってしまう。倫理的なことはしゃべるべからず。どっかのハンサムな哲学者が「語りえないものについては、沈黙しなければならない」といったが、彼が同じことを考えていたのかどうかはしらない。
少しでも善いものであろうとすると、有能な人のような生き方は選べないと感じられる。しかし無能になったからって善くなれるわけではない。別の意味で私は悪い人になる。私が無能者たる自分に自惚れる罪に比べれば、有能者を非難する罪はごく軽い。そしてその罪について考え抜くことができないということ、私が自分を否定しきれないことが私の悪さだ。
どうすればよいのか。倫理的関心をシャットアウトするしかない。倫理的無関心になるしかない。人は倫理的関心・感性を持った倫理的人間になるべきだ、とは一般に言えない。そもそも関心がないところで倫理的「べき」は成り立たないから。よし、私も無関心になろう。いや、自分の関心をコントロールすることができるか。
★★★
という話が延々と続くところで、生活が続くことの必然性が強力に現れてくる。それに比べたら上のような観念的なやり取りがどれだけまぬけに見えることか。「いや、私には切実な問題なのです」。いいことを教えてやろう、小僧、お前が切羽詰まっているとか、一生懸命やっているとか、つまりどういう風に感じているか、どういう風に捉えているかは、真理とは何の関係もない。
だから、そう、生活をしなければならない。「しなければならない」? 安心したまえ、君がそんなに気負うことがなくとも、生活は続くのだよ。
だから、ただそのことを認めなければならない。(事実を正しく認識することが、倫理的関心の有無などを超えたところにある本当の意味での善さ、であるかもしれない。真理の認識を善さとみなす立場は倫理学的には誠実主義honestismと呼ばれる。というのは嘘である、私がそう呼んでいるだけだ。)
2018.10.21