【復刻】恋愛論1 恋愛感情論序論

 

 

愛的・好き的感情というものは気まぐれであって、しかしこれが特別気まぐれであるように見えるのは、むしろ私たちの願望のせいである。

この感情が本物であってほしい、不変のものであってほしいという願望が、かえって好き的感情を不必要なプレッシャーのもとに常時さらすこととなり、結果として必要以上に不安定なものにさせる。

しかしながら、この(好き的感情が確かなものであってほしいという)願望は倫理的要請のように感じられるために生じてくるもので、つまり義務のように感じられるためにそのように願望しているのであって、その意味で必然的な願望である。

 

しかしこれは考えてみればおかしな願望で、決して私たちの真正の願望だとは言えない。偽物である。

あたかもそのように願望することがパートナーに対する義務であるかのように感じられる。しかし私たちは、本来ならばこのような願望を持つはずがないのだ。この特定の相手に対する愛情が、この特定の相手がどんな風に変化しようとも、変わらずあり続けてくれるようになどと考えるのはおかしなことだ。その相手が変化した結果、私に不幸ばかりがもたらされるようになってもなおこのような感情を持ち続けたいとしたならば、私はとても不合理な人間だ。

誰であれ、私が一緒にいて幸福を感じられるような人に対して愛的感情を持ち続けていたいというのならば理解はできる。しかしこの場合、もちろんこの「私を幸せにしてくれる誰か」を現在のパートナーなり特定の一人物と同一視することはできない。そんなものはドグマである。

しかも、私が幸福を感じられる人に対して愛的感情を持っていたいという願望は、その人と一緒にいられることによる幸福のほうに根拠があるのであって、つまるところ幸せでいたいという願望の一部分であるにすぎない。このとき人は、愛的感情が変わらないことを願っているのじゃない、ただ幸福を願っているのだ。

つまり、まとめると、この愛的・好き的気持ちが本物であってほしい、ずっと変わらないであって欲しい、というのは、本来的な願望ではない。

 

 

いや、上のことは正しくはない。

人を好きになったことがあればわかるであろうが、といって別に分からなくてもよいのであるが、特定の人に対する愛的好き的感情を確かなものたらしめたいという願望は切実なリアリティを持つ。

リアリティを持つ、ように感じられる。

感じられる、からといってそれがその通りであるとは限らない。それはその通りである。

私は、この「感じられる」ことだけに依拠してそれをリアルだと主張する人たちの強い見方ではない。

どっちなんだ、お前は。

私か? 私は、やっぱりその気持ちが確かなものであってほしいという願望は、リアルなものだと考える。リアルやなぁと感じるからではない。それが倫理的要請だからだ。

 

つまるところ、恋愛というのは倫理的な関係なのである。(そんなことは言うまでもない。)

愛的感情の本質が、気持ちよさや幸福ではないのだ。この感情の本質は「これが続いてほしい」、これである。

この感情が特定の相手を前にして初めて現れるのも、その本質が幸福にではなくその相手との関係性自体に根差していることによる。

だから、まだ会ったこともない理想の恋人に対して愛的好き的感情は発生しない。「私を幸せにしてくれる誰か」に対して愛的感情を持つことはない。

 

愛的好き的感情は、その感情自身が未来に存続し続けることを願う、必然的に自己を束縛する感情である。

「好きだよ」と「明日も一緒にいたいね」は同義だ。

「好きだよ」と、口にした瞬間に限って言えば、その通りだ。だが、もちろん「明日も一緒にいたいね」と今日思うことと、明日になって「今日も一緒にいたいな」と思うこととは違う。

だが、明日だったはずのその日がいざ今日になってみたとき、別に一緒にいたくないなと感じたら悩ましくなる。なぜか。昨日、次の日の自分を束縛していたことを覚えているからだ。

 

この時、優先されるべきはその時の非愛的感情のほうである。優先されるべきというより、それだけが正しく自分の感情なのだから、それを選ぶ以外に仕方がない。

だがそうすると、約束を違えてしまっているような感覚が拭えない。

 

そうかもしれない。

もしあなたが、好きな人と一緒にいる根拠として愛的好き的感情をあげるならば、そうなってしまうだろう。「好きだから一緒にいるんだ~」とか言っていたならば、じゃあいざその気持ちが傾いてきた時にどうするのか。

 

私は好き的感情に根拠を置くのは好きではない。

というより、一緒にいることに根拠を求めるのは必要でないと考える。

愛的感情で未来の自分を倫理的に縛ることはできるが、それによって未来を現に決定することはできない。

 

根拠というのは何事かを説明するために持ち出されるものだ。よく考えてみないと気付かないことだが、私たちが持ち出す根拠の(全てといって問題があれば)ほとんどは、私たちにとって自明のことを敢えて「説明」するために用いられる。たとえば哲学では、「どうして経験が可能なのか」や「どうしてまだ見たこともない火星人を考えることができるのか」ということを説明しようとしたりするのだが、経験が可能であることや火星人について考えられるという事実自体は自明であって、これが事実か否かということに関しては私たちは説明を要さない。

根拠を与えることができれば、この事実がより強くなるというものではない。根拠が与えられなければ、この事実が疑わしくなるということはない。

一緒にいるということに関しても同様で、そこに根拠がなければ浅薄な関係になるというものでもない。

 

また、確かな未来が欲しくて根拠を与えたくなるという場合もありうるが、これは完全に無駄なことだ。

ある種の説明は未来について記述するが(彗星の軌道を予測したりなど)、これはこの未来の出来事も単に事実として扱っているからできていることだ。このような軌道尾で飛んできてほしいという願望を出力するだけの説明には、軌道の予測はできない。

何が言いたいかというと、そんな複雑なことを言っている訳ではなくて、今現在を愛的感情で根拠づけても未来を予測できたりはしないし、その感情が本性上規定するような仕方で現に未来が現れたりもしないよ、ということ(あれ、なんか複雑な言い方になった。願望と未来とは関係がないよ、ということです)。

 

一般に、何かにつけて説明を与えるのは現代の病理だ。

根拠と説明を失うことは現代人にとっての不安である。(なぜかというと、現代が啓蒙されきった時代だからです。啓蒙は不安を取り除くことを本分とするが、それは根拠と説明付けによってなされるから。)

しかし、根拠がければ死ぬのかというと、現代人からすると意外なことに、死なないのである。生活が続くのである。

これは一種の知的閃きのようなものだ。まぁそんなことはどうでもいい。

好きな人と一緒にいるのに根拠をいちいち考える必要は、ない、かどうかは知らないが、私はあえて考えない生き方をしたいと思う。

 

 

2018.10.03