【復刻】倫理1 倫理学の内容

私たちは常に正しい。常に必然的な仕方で在る。が、それにも関わらず、私たちは正しく在らなければならない。常に正しく在るのに、正しく在らなければならない。

どういうことやねん。

しかし、これが単純に「どういうことやねん」となる訳ではない人というのもいる。いや、明らかに私は変なことを言っている、のだけれども、にも関わらず(おそらく)人間精神の本質に即して大事なことを言っている。

 

私たちは正しく在る。だからこそ、正しくあろうではないか。

「いいんだいいんだ、そのままでいいんだ。ただ気が向いたら(あなたはきっと気が向くだろう)南無阿弥陀仏と言ってごらん」こう言えば法然

「私たちが常に正しいということは神の意志からして明らかにそうであらねばなりません。そのことを私たちはきっと、神のうちへと入っていくことによって、理解することでしょう」と言うのはたぶんどこかの偉大な司教とかだろうか。

 

ここで「正しく在ろうとする」ということが倫理的な問題である。

端的に、現に、「私たちが正しく在る」という事実(これを事実と呼んでよければ)のほうは倫理の境界線をなす問題である。

 

★★★

 

一般に、自由概念は倫理と関わりを持つと考えられている。

だが、「自由である」とか「自由でない」とかという問題は、「私たちは現に正しく在る」という言明と同じ性質のものだから、自由概念は倫理と直接関わるものではない。倫理の内実をなすものではない。良くて倫理の境界線に(すなわち世界の境界線に?)関する問題だ。

 

よく、自由がなければ倫理的な一切のことも問うことができない、自由がなければ倫理もない、と言われる。が、そんなことはない。

仮に自由がなくとも、私たちは倫理的責めを負い、倫理的ぎこちなさを感じ、また時には倫理的滑らかさでもって生きていく。

生きるにあたって、およそ倫理的でなくなることはできない。といってもちろん、最高度に倫理的であることもできない。

 

自由を強く信奉する人は、自由がなければ倫理的責任どころか社会的責任や法的責任も問えない、と主張する(倫理的・社会的・法的の区別がどのようかということはおいておくとして)。

私としては、これはおかしな話だと言わなければならない。だって、現に私たちはこの世界で自由ではないのに、社会的・法的責任を問うているじゃないですか。現に自由でない私たちは社会的に償わせたり法的に裁いているじゃないか。

なに? 「現に私たちは自由じゃない」のところがおかしい?

そうでもなかろう。おかしいと言うなら、この世界と、私たちが自由じゃない世界とはどう違うのか。その違いを私たちはどうやって知ることができるのか。

私たちは現に自由じゃない、とこうして言えちゃう以上、私たちは現に自由じゃないのだ。同じく、私たちは現に自由だ、とも言えるので、私たちは現に自由でもある。

 

つまりどういうことかというと、「自由だ」「自由じゃない」という言明はこういう性質のものだ、ということだ。(最初に言った「私たちは正しい、必然的な在り方をしている」というのも、この意味で同じ性質のものだ。)

こういった言明は、倫理の内実に影響を与えたり、倫理自体をなかったことにできるものではない。

自由と倫理は両立するし、非自由と倫理も両立する。

 

 

さて、倫理の内容とは、「私たちは正しくあらねばならない」というものだ。

この言明を証明することはできない。だから、私たちは正しくあらねばならないのかどうか、というと、別にそういう訳でもないと言わざるをえない(Why be moral問題への回答はこういうものになる)。

ただ、哲学が経験を説明するような仕方で、倫理も説明されなければならない。ならないということはないけど、それが倫理学の仕事なのだ。

それについてはそのうちまた語られたりするかもしれないね。

 

 

※この記事は極めて不明瞭である。

 

 

2018.10.07