【復刻】疑問だらけの素晴らしきこの世界

 

薄々感づかれているかもしれないが、私の頭はもう長らく人文学的・思想的・宗教的な放射線を強く浴び続けてきたため、もはや不可逆であるほどの変質を被っている。

いやいや、そんなに長いこと従事してきたわけではないだろう、たかが数年だ(まだ十年にも満たない!)そんな大げさな言い方が許されるほど成熟してはいないよ、君は。

 

私は異様なほど謙虚なので、上のようにまどろっこしい語り方を避けることがどうしてもできない。

 

まぁ、それはそれとしてだ。どうして私の頭の話をしようと思ったのかというと、この記事の内容があまりにもチャレンジングであるからだ。あまりにも通俗的真理から遠ざかっているからだ。にも拘らず、病に侵されている私の頭にはどうにも正しく思えてしまうからなのだ。

いやいや、真実を語るにせよ虚偽を述べるにせよ、たかが数年の修行だけで君がそんな途方もない思想的距離に至ることができるとは思えない。君が言うことは沖合100kmの距離にあるような深遠なる言葉ではありえず、せいぜい沖合20mの事柄を言い当てるのが関の山だ。ことさらにその射程の広さをアピールするのは、たんに余計であるばかりでなく真実に深みを持つ賢者たちにとっては不快ですらある。

 

そう、私は異様に謙虚なので。

 

 

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真理とは何か、ということについてしゃべってみようと思う。

 

真理とは、断定的な形で述べられるものだと通常は考えられている。やや耳慣れない言い方をすると(哲学に親しんだ人間には耳慣れすぎた言い方なのだが)、真理は命題の形で表されるものと考えられている。

「ナントカはナントカだ」とか、「ナントカがナントカだ」という形式。

しかし、なぜそうなのだろう?

 

なぜそう思われているのかは後回しにして、私は違う考えを持っている、ということを話したい。

真理は、疑問として我々の心に現れる。これが私の考え。

 

 

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正しい疑問の提出こそ、思想の果たすべき役割である。

大事なのは疑問を正確に言語化することであって、思想家の努力はこれまでもこれからもすべからく疑問を適切に表現するための努力であった。

 

 

2018.09.14