【復刻】哲学カフェに行く(行った)

 

 

けっこう前になる先日、「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」というテーマの哲学カフェが行われた。

哲学カフェというイベントはご存じの方はご存じだろうが、哲学的トークの社交場のようなものである。別に哲学という専門的な領域についてよく知っている「権威」が登壇したり参加したりして専門的な話をする場ではない。俗に「哲学的」と思われるようなトピックについてめいめい好きに意見を発信して語り合うところである。(そういう意味で、哲学カフェは必ずしも哲学の場であるとは限らない。)

ちなみに、哲学カフェは必ずしもカフェであるとも限らない。そこらへんの会議室で行われたりもする。

 

今回は哲学カフェというイベントそのものについて、やや少し話しておこうと思う。

こういった催しがなされることの是非について。私としては、積極的に開催していこう、という思いではないし、しないほうがマシだという考えでもない。

私の態度の根幹にあるのは、思想の役に立たなさ、である。思想というものの「余計なもの」性である。思想も読書も余計なもので、暇人がやるものだ。暇人であることが悪いとは言っていない。ただし、暇人は暇である限りは何一つ重要なことに関与しない。では、重要なこととは何か。生活することである。暇人とは、生活の中で積極的に生活から離れていくような態度のことだ。

そういうわけなので、哲学カフェというイベントに参加するのは、まぁたいていの場合は暇人なので、その活動にいいや悪いはほとんどない。参加者のなかには真剣な(哲学的)悩みがあって来ていて、だから暇なんかでは断じてないという事情を持っている人もあるかもしれない。そういう人が、哲学カフェへの参加で「たまたま」救済されるということもあるかもしれない。しかし、それはあくまでたまたまそういうことが起こったというだけの話で、これからも人を救うために積極的に哲学カフェを開催していくべきだという話にはならない。哲学カフェはそういう救済のシステムとしてデザインされてはいないからだ。

と書いてきて、そういえば中島義道の哲学塾に自殺願望の強い青年がずっと通っていて(彼は自身を中島義道と重ね合わせていたらしい)最終的に自殺した、という話を聞いたことがあったと思い出したが、この話はある種の人々を救済する場所としての哲学カフェを必要とする積極的な理由には思えない。自殺者が多いことは何らかの意味で問題であるし、問題だということはそれへの対応があることが、少なくとも社会的には、望ましいわけだが、自殺希望者やその予備軍に中途半端に思想的戯れを行わせるのは逆効果であろう。少なくとも私の用語法でいう限り、自殺する人は暇なのである。そんな人をさらなる暇人にしても仕方がない。楽しくてやりがいのあるそこそこ忙しい仕事と300万円を与えれば自殺したい人はずいぶん減るのではなかろうか(中学生だってできる「仕事」はたくさんある)。

まったくの私見を述べるので申し訳ないが、哲学をやって、あるいは思想を知って、死にたくなる人は、そういう思想の捉え方をそもそもする人なのだろうと思う。私は全く逆で、『善の研究』なんか読むと生きていたくなるタイプなのだが、世の中哲学科の学生は割合自殺率が高いらしいので、その事実をきちんと受け止めれば、世間には思想によって死のほうに引っ張られる人もそれなりにいるということなのだろう。きっと、死ぬことがとても大事なことに思えるからそうなるのだろうと思う。私は、死ぬくらいいつでもできるじゃないかという気持ちでいるのだが、これが真理ならばあちらもまた真理。どちらがより真理であるか、と言い出しても仕方がない(本当に仕方がないのかどうか、実は私は知らない。が、少なくとも、「仕方がない」と言っておくより他に仕方がない)。

 

 

哲学カフェに賛成しない場合、それは専門家の思い上がりなのではないかという批判を受ける恐れがある。この批判は、かなりの真実を含んでもいる。

が、哲学というものはあくまで誠実に行われるべき性質のものであるということも確かだ。なぜなら、哲学が問題にするのは人間以上のものだからだ。それに対する畏怖と謙遜を以てしなければ哲学をすることにはならない。なんていうのは極端すぎるけれども、それも程度問題であって、「さて私の賢い頭でぱぱっと解決して差し上げましょう」という態度で臨む限り、得られるのは自分に都合のいい偏見ばかりである。

つまりどういうことかというと、こちらがどういう態度でいようと、彼岸にある真理がへりくだることはないのである。真理は常に私たちに到達できない高みにあること、それを理解しないまま哲学をすることはできない。へりくだるのはいつでも私たちでなければならない。少なくとも私としては、他の歴代の面々とともにそのように考えていたい。

だから、哲学カフェを気楽に開催するのはよい。しかし、いくら玄関をポップに装飾したって、いくら「真理、安くしときました」的な見せかけをしても、そんなことは起こりえないのだ。哲学カフェというイベントの門戸の広さだけではない、その活動に熱心に参加してみることによっても、なんだか自分が高尚な思想の一端を担っているような感じがして、「なんだ、真理って思ったより安いじゃないか」と考えてしまいかねない。(これは哲学カフェ参加者に限った話ではなく、たとえばある分野の非常に細かい領域に関して日本で一番詳しくなったと自認した専門哲学家なんかにも容易に起こりうることである。)私が哲学カフェに手放しで賛成しない理由はこの点にある。

しかし、こういうことを言うと受けが悪いだろうとも思う。「せっかく哲学に興味を持ってやったのに、入門して早々膝を地面に擦り付けろっていうのかね。そんなことしてまで哲学と付き合おうとは思わんよ」。それはそうだろうとは思う。だが、そこまでしなければ哲学はできないというのが実情なのだから仕方がない。私たちに真理が合わせてくれるのではない。私たちが真理に合わせるのである。「そこまでして哲学と付き合おうとは思わない」というのは愚者の傲慢などではなく、むしろ賢明な判断である。あなたには哲学が必要でないのだ。

 

 

そういうわけなので、私が哲学カフェというイベントの是非についてどう思うかを書くと、このように「いいんじゃない、どっちでも」ということになる。結論なんて意地でも出してやるものかという姿勢でいる私が「哲学カフェの是非について論じる」なんてそもそも無謀なのであり、結論だけ欲しい浮世の皆様にはこの記事は何の役にも立たなかったに違いない。

役に立たなかったという点においてだけ、私は慰められるのだから。

 

2018.12.10