【復刻】哲学2 言葉はどうして時に人を傷つけるのか

 

 

けっこう前になる先日、「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」というテーマの哲学カフェが行われた。

それに行ってきたので、そのテーマについて自分なりに言いたいことを書いてやろうって思っていたのだが、前回は哲学カフェそのものについてしゃべるだけで終わってしまった。

今度こそ、どうして言葉は時に人を傷つけるのか、を語ってみる。

 

★★★

 

「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」と「どうしてハサミは時に紙を切り裂くのか」を比べてみる。

「どうしてハサミは時に紙を切り裂くのか」なんて普通問題にしないだろうが!と思われたあなたは正しい。こんなこと普通問題にしないのである。誰だって紙を切ろうと思ってハサミを使うわけだし、ハサミを使えば紙が切れるという経験に基づいた揺るぎない信頼がなければ、そもそも「どうしてハサミは紙を切り裂くのか」なんていう質問自体していなかっただろう。

「しかし言葉が人を傷つける場合に関しては話が別だ、どうして言葉は人を傷つけるのか、はハサミの場合のような馬鹿げた問いじゃない」と思う人がいるかもしれない。私はそうは思わない。どうして言葉は人を傷つけるのか、も十分馬鹿げた問いなのだ。普通なら問題にしないような問いだ。ところが多くの人がそれを問題にすること、さらには難しい哲学的問いだと思っていること、これがこの問いのハサミの場合と異なっているところだ。それが私の結論。説明していこう。

 

★★

 

「どうして」は多義的だ。

言葉の場合とハサミの場合とで、「どうして」の意味が同じかどうかを考えてみよう。

どうしてハサミは紙を切り裂くのか。それは、紙に元の形を保とうとする力が働いていて、一方ハサミの刃の部分が局所的に垂直方向の圧力を加えることでなんとかかんとか…。ハサミの場合は、もちろん文脈にもよるが、たぶんこのように答えることが最適である場合が多いだろう。ここではどのような原理でハサミが紙を切るという機能をはたしているのか、それが問われている。

同じくどのような原理で言葉が人を傷つけるのかを問う「どうして言葉は人を傷つけるのか」も存在する。これに対する答えはなんやかんや複雑になるように思われるが、言葉とはこういうもので、人とはこういうもので、だから言葉が人を傷つけるという現象はこういう風に説明されるんですよぉ…的な、その基本的な図式はハサミの場合と同じだ。

 

どうしてハサミは~、に対して、「あなたがハサミで紙を切ろうと欲したからだ」と答えるのはナンセンスだ。

一方、どうして言葉は~、に対して、「あなたが言葉で人を傷つけようと欲したからだ」と答えるのはナンセンスではない。

ナンセンスではないということは、どうして言葉は~の場合の「どうして」はこういう答えも許容するような「どうして」だということだ。一方、どうしてハサミは~の場合の「どうして」はこの答えを許容しない。ここにこの両者の「どうして」の違いがみられる。

 

どうしてハサミは~、に対して「あなたがハサミで紙を切ろうと欲したからだ」がナンセンスなのは、あなたがハサミで紙を切ろうと欲したのは言うまでもなく明らかだからだ。そしてそれを全員が認めているからだ。

それじゃあ、どうして言葉は~、に対して「あなたが言葉で人を傷つけようと欲したからだ」がナンセンスでないのは? これが言うまでもなく明らかではないから? 違う。言葉が人を傷つけるとき、あなたが言葉で人を傷つけようとしていることは言うまでもなく明らかなのだ。それなのに、そのことを全員が承知していない。だから「あなたが言葉で人を傷つけようと欲したからだ」と敢えてアナウンスすることがナンセンスではなくなる。

 

本当にそうなのだろうか? 本当に、言葉が人を傷つけるとき、私たちは「相手を傷つけよう」と思って言葉を発しているのか? その通り。本当に傷つけようとして、その目的を最もうまく遂行してくれる言葉を選んで発しているのである。少なくとも、紙を切ろうと意志してハサミを使うのと同程度に意志してその言葉を使うのだ。

(この段落の話はやや回りくどくなるが、本当は不必要な段落だ。あなたが今度「あ、嫌なこと言ってしまったな」と思ったとき、自分の心のなかをよくよく観察してみればよい。純然たる悪意がそこにあることを確認するのはそんなに難しくないだろう。)

あなたがハサミで紙を切ってしまったとき、あなたは紙を切ろうと意志していたのだろうか。その確認は事後的になされる。つまり、切り裂かれた紙があり、あなたの手にハサミがあり、チョキチョキした記憶があって、それでもなお私はそんなことを意志してはいなかったと言えばちょっと異常である。なぜなのか。あなたにはハサミをコントロールする十分な能力があるからだ。少なくとも紙を切るのには十分なくらいのコントロールがある。

言葉についてもそうだ。私たちは言語コミュニケーションの達人である。「まだ人間歴二ヶ月くらいで、言葉でのコミュニケーションには慣れてなくて…」なんて人がいたら難しいジョークだなと思うだろう。達人である私たちは、どのような言葉がどのような影響を相手に及ぼすか、めちゃくちゃよく知っている。それでも知り尽くしてはいないので、時々は本当の意味で予想だにしなかった影響を与えたりして心からびっくりするわけだが、そういうケースはまれだ。日常的な場面では言葉を使って予定通りにコミュニケーションができる。それができなければ言葉は道具としての資格を疑われるに違いない。道具は身体化される。どう手を伸ばしたら棚の上の貯金箱を取れるか考えるまでもなく分かるように、どう言えばこのコミュニケーションがどうなるのかが私たちには考えるまでもなく分かる。このくらいの深さの傷をつけてやろう、そう思えばその通りにできるのだ。なにしろ使い慣れた道具なのだから。

さて、あなたは切ってはならない紙をハサミで切ってしまった。それを誰かに見られてしまった。問い詰められて、あなたは自分がこの紙を切ろうと欲したのかどうか真剣に考えるだろう。その瞬間においては、あなたがその紙を切ろうと欲していたのかどうかあなたには本当に分からなくなっているのであり、もしかしたらそんなこと欲していなかったかもしれない、いや欲していなかったに違いない、と本気で考えるのである。しかし、あなたがハサミをコントロールしてチョキチョキした以上、あなたがそうすることを欲したのは紛れもない事実「だということになってしまう」ので、あなたは結局自分の意志で切ってしまったのだと認めざるを得ない。では、言葉の場合はどうか。あなたが部下に発した一言が上司に報告されてしまった。あなたは、またしても自分は本当にそんなことを言おうと欲したのかを考えることになる。またしてもあなたは、本当は自分はそんなこと言おうと欲しなかったのではないか、いや欲しなかったに違いない、と思う。そこで、今回は前回とは異なり、自分は「つい言ってしまったのだ」と結論する。なんであんな思ってもないこと言っちまうかな、しょーがねぇな本当に俺は。上司には怒られるし部下にも謝らなければならないが、自分の心を責めるのはこの時自分一人だけである。おい、聞いてるか、しっかり反省しろよお前。

嘘をつけ。あなたがその言葉を巧妙に選んで発したのではないか。なにが「つい言ってしまった」だ、そんなことあるか。しかしこれが人の心の防衛機能。これがないと到底上司の叱責に耐えられないし、部下に頭を下げるなんて悔しくてできない。だから悪いことではないのだ、このように考えるのは。悪いことではないのだが、ただ、真実に即して話すならば、あなたには言葉の十分なコントロールがあり、意図して悪意を表出したのだ。それだけ知っておきなよ、という話。

 

みんながみんなこのことを私と同じように信じていれば、どうして言葉は~、に対して、「あなたがそう欲したからだ」と答えるのは、どうしてハサミは~、と同様、ナンセンスになる。「どうして」の意味が両者でほぼ同じになるだろう。ハサミが紙を切るのは圧力がですねぇ…が最適な答えになるのと同様、言葉が人を傷つけるのは人の言語処理の仕方がですねぇ…といった種類の答えが求められることになる。いや、そもそも、私たちがハサミが紙を切るのはどうしてかをほとんど問題にしないのと同じように、言葉が人を傷つけるのはどうしてかを一部の心理学者以外はほとんど問題にしなくなるだろう。ハサミは紙を切るものだし、言葉は人を傷つけるもの、それでたいていの場合は事足りてしまう。

 

そうならないのは、世間の認識が足りないからだろうか? そうではない。このような認識のあり方が必然的なのだ、と私は思う。そこからズレながら世間の大多数とは違う認識を持つ私のような存在もまた、必然的である。私の持つ認識のほうが事柄をより「よく考えている」ように見えるけれども、だからといってより正しいわけではない。世間の認識はあくまで健全である。そことの関連のうちにある限りで、私の認識も「より正しい・より考えられている」という相のもとに、健全に在る。

啓蒙家の根拠は理性にはない。啓蒙家が間違っているとか足りないとみなす世間的の考えのうちにだけ彼らの根は張りうる。世間と思想家との間柄は、ウィンウィンであり、バランスであり、役割分担であり、遊戯のようなものだ。「考えるから偉大だ」なんてことは言えない。少なくとも現代の私たちは、いやもっと誠実に述べれば、私は、言えない。

 

またしても、見事な脱線であった(自画自賛)。

だがこの脱線によって、どうして私が結論を出すことを必要としないか、多少は分かってもらえたのではないだろうか。考え方に少し色を付けるだけのお仕事なのである。先日の哲学カフェでも、「どうして言葉は時に人を傷つけるのか」って、「そりゃ傷つけようとするからでしょ」なんていう意見はついぞ出なかった。だが「そりゃ傷つけようとするからでしょ」にも真理はある。それを考えてみようぜ、私はそう言うだけだ。

「そんなんじゃ何の役にも立たん!」いいのだ、私は無能だから、役に立たなくて。

 

★★★

 

追記(嘘。間を置かずに書いている)

このテーマの曲者であるところは、どうして言葉は「時に」人を傷つけるのか、この「時に」だと思う。この句が挿入されることで、現実問題としての言葉の暴力というより具体的な問題を扱おうという、抽象的になりすぎる空論は避けようという意図が感じられる(感じられるだけで、本当にそう意図してあったのかどうかは知らない)。

私の今回の話は、この点からすると全く的外れにもほどがあるくらい抽象的である。でも仕方がない、これが一番言いたいことだったのだ。きちんと現実を見据えた話もできるようになりたいものだと思う。

 

 

2018.12.10