【復刻】哲学3 いわゆる演技

別の記事を書いていたら脱線してしまったのだが、元の話題とあまりにかけ離れてしまったので独立して出すことにした。

社会的な振る舞いの多くは演技だ、という話である。「演技」とは何か。第一義にはおそらく役者が舞台上でなす振る舞いのことだろう。しかし私たちはみんな役者でもないし舞台上に立つわけでもない。舞台というのを「人前」だとみなせば、なにかスピーチしたり体験談を話したりプレゼンしたりなんかの機会は多くの人がいつかは持つこともあろうが、そういう広い意味での「舞台」上での振る舞いだけが演技と言われるのではない。

役者の振る舞いから転じて、「ただ見せかけのために行為すること」という意味合いが演技に含まれるようになった。ここで、この派生的な意味と第一義との間に意味の逆転が生じているのが見て取れるだろうか? つまり、役者さんは、確かに舞台の上でフィクションのために行為をするが、本当の演技は「ただ見せかけのために」為されるのではないのだ。時計台を見上げるという演技をするとき、役者は本当に時間を確認するために見上げるのだ。ただ首の角度を上げるだけじゃない。役者はフィクションに殉ずる。一方で、日常的な演技には意味がない。それはただの社会的な合意に基づく形式的テンプレートである。

 

人間が生まれながらに自己意識を持っているのではないということを考えれば、演技がある意味ではとても「自然な」ものだという風にも見えてくる。自己意識というのは社会の中に赤ん坊を放り出して時間を置くと芽生えてくるものだ。自己意識とは、だからまずは社会的に開始される。もちろんそれは初めから終わりまで社会的なものであることは間違いないのだが、それでも成長するにつれて自分自身を発現させても構わないスペースを見出すようになる。そこに自分自身を表現するようになる。その部分があなた自身の本来の「自然」だとみなされる。

この社会的に許容された隙間に生じた本来のあなたがどれだけ確たるものになったかがその人間の成熟度である。だから、何につけてもテンプレートなリアクションしかしない女子会の女の子たちは「若い」とか「幼い」と言われる。

若いとか幼いと言われる人たちは、自分が社会的な演技をしているということを自覚せずに演技をする。彼らはテンプレートな形式をなぞる以外に適切な振る舞い方を知らないのだ。そういう人間は話す内容さえ演技である。バイト仲間で集まっているときによく店長の悪口を言うだろう、あれと同じである。別に店長が特別悪い人だというわけではないし、バイト君も本当は店長のことを悪く思っているわけではない。ただそういうテンプレートがあるのだ。

じつは、世の多くの悪口というのは単なるテンプレに過ぎなかったりもする。愚痴り方には形式がある。愚痴るという行為がある集団にもたらすメリットについて考えたことがあるだろうか? 愚痴るというのは、もちろんその愚痴が仲間に共有してもらえると期待して愚痴るわけだが、共通の敵を作り出すということだ。共通の敵というのは、私の考えでは、ある集団の存在する最大の理由である。あらゆる集団は(とまで言っていいのかは分からないが)ある別の集団の敵であることによって成立している。たとえばツイッターである女性が上司のセクハラを糾弾し、10000リツイートに達したとしよう。ここにこれをリツイートした10000人からなる集団が形成されるわけだが、この人たちは正義を共有する10000人の集団なのではない(本人たちはそう思ってるかもしれないが)。ただこの女性の上司に敵対することだけを共有する10000人なのだ。集団とはそういうものだ。

集団の中で愚痴るということは、だからその集団に自分が帰属していることを確認すると同時に団結を深める有益な行為としての側面がある。この側面を無視してただ「愚痴ばかり言う人間は嫌い」と仰る立派な方々も多いが、それは独善というものです。よく愚痴る人は、「悪い人」ではない。ただ若くて幼いのだ。悪い人ではないというより、自分の意志をきちんと把握できていないので、悪い人にはなりえない。悪いことを意志すればこそ本物の悪人なのだから。愚痴ばかり言うのはやめてほしい、なんていうのも他力本願だ。そういう形式ばかり採用させるその環境がよくない、そういう面もあるだろう。

 

形式的テンプレートとしての演技と、作法とは似ているようでいて真逆だ。なぜ真逆なのか。ただの無自覚な物まねでは作法のレベルにまで昇華させることができないからだろう。テーブルマナーにしても、茶や剣の道にしても、スポーツマンシップにしても、それは自覚的に統制された行為でなければならない。冒頭で述べた役者の「本当の演技」だってそうである。自我の足りていない無邪気な人たちにはこれらの「道」は極められない。だからこそ、これらが独自の教育的効果を持つのである。

 

今、「教育的」といったが、無自覚に演技ばかりする状態から自覚的に振る舞う一人の人間へと変化させることは、いいとか悪いとかは抜きにして、やはり教育の仕事であろう。「考える力をつける」こういうことを言う人にもし考える力があれば、どのような教育が効果があるのかということは理解ができるはずである。

若いとか幼いとか言われるのは、何も青少年に限られた話ではない。大人、それももう高齢者と言われても差し支えない人にもこういう意味で若い人はいるのだ。それが悪いと言っているのではない。しかし、昨今の流れとして、このような若さは歓迎されない風潮があるということは言えるかもしれない。しかし、自分がまだ本来の自分というものを培うことができていないのに、子供のそれを養うことはできないだろう。まずは自分自身を十分な程度に養うところから始めなければならない。

何の話をしているんだろう。

 

 

2018.12.14