【復刻】哲学4 ツチノコについて

 

どうにも彼には予告なく仕事を放棄する癖があるので、彼はまるでそれを放棄するその時のためだけに仕事をしているかのようであった。

仕事を投げ出すのはどんな時か、と言っても決まっていない。どんな理由によるのか、と聞くのはさらに野暮である。あらゆる出来事、とくにそこに人間の精神が絡んでくるとなると必ずその背後に特定の理由があるのだと思いたがる、そういった素朴因果論的な思考の型にはめられることを彼は喜ばない。といってそうした素朴因果論を拒むのは、彼が自身を自由な人間だと見做したいからなのでもない。実際、彼は自由などは言葉だけのものに過ぎない空想だと考えている。つまるところ、真実は分からないものだ、ということを彼は他の人間よりも分かっているつもりなのであった。どんなことにも原因があると考えるのも、人間の精神が関わるところには自由が顔を出すと考えるのも、どちらも素朴だ。素朴だというのは、人間が自分たちに理解できるような仕方でとらえた限りでのDingeに過ぎないということだ。真実は捉えられるが、何となれば人間によって、他の何者によってよりも上手く捉えられるだろうが、人間が捉えるものは真実でも、捉えられたものはもはや真実ではない。

なぜ、ツチノコが存在しないのか。ツチノコはこの世界には存在しない。もしも将来胴の太い短い蛇のような新種の生き物が発見されたとして、そしてそれが俗に「ツチノコ」と呼ばれるようになったとして、それはツチノコが実は存在するということを意味するのではない。「ツチノコ」という語の意味が変わったのだ。なぜならツチノコは存在しえないからだ。なぜ存在しえないのか。それは、ツチノコは空想上の生き物であると認められているからだ。空想上の生き物が現実に存在するということはない。それは記憶の中にしかないものが二度と現実のものとはならないのと同様である。空想上のものは観念のうちに存在している。現実的なものが観念のうちにそのまま入り込んでくるということはありうる。言い換えれば、完全に現実的な観念は可能なのである。一方、観念がそのまま現実に飛び出していくことはない。完全に観念的な現実は不可能だ。ツチノコはこれまで一度も完全に現実的な観念となったことがない。多かれ少なかれ、人間の想像力によって作り出されたものだからだ。したがって空想上の生き物でしかないのであり、それが現実に飛び出して、なにか現実的な対象、たとえば新種の蛇など、と結びつくことはない。

人間の素朴な思考の型を信じないというのも同じ理屈なのである。素朴因果論も素朴自由論も、言ってみれば人間用の枠組みだ。それは空想の世界を描き上げる絵具なのであり、神話を紡ぐ言葉なのだ。それがそのまま真実の世界に飛び出すということはない。素朴で、洗練が足りていないことが問題なのではない。どれほど丁寧に描かれたツチノコでも、それがより現実的になったということは言えても、いよいよ現実そのものとなったということは決して言えない。

作り物が動き出すのは古来よりの人間の夢である。ピュグマリオンとガラテアの神話にあるような、見事に作り上げられた像が生命を得て現実となるということは、観念的なものがいつか現実に到達できることを願う希望なのであり、それは全く正しい希望であるけれども、もはや私たちはこれを否定しなければならない。否定するところから始めなければならない。

これを為すのは新しい啓蒙の仕事である。啓蒙というのはもはやかつてのように新しさと知性と善さを備えた営みではない。啓蒙するものとされるものとは、実は昔からそうだったように、同じ地平に立って相対的に存在するのだ。啓蒙する者たちは啓蒙されるべき者たちのところに自然と湧いて出るように現れるものであるし、啓蒙される者たちもそれだからといって完全に感化されて習慣を改めるということはほとんどない。啓蒙する者たちは、そのうちで最も謙虚な部類の人でさえ、少なくともほんのわずかには自分たちのほうに正しさの分があると考えるし、啓蒙される者たちはその反対側の人々の声のうちに彼らが思うほどの正しさを感じられずにいる。この両者はともに同じ地平の上にいるのだ。正しさがどこにあるのかというなら、この現実こそが正しさである。啓蒙の声は導かず、人は動かず、声は嘆き、人は苦しみ、声は怒り、人も怒る、この現実である。

 

かくして、彼は現実を真実だとみなすひときわ目立ったリアリストなのであった。しかし同時に気付いてもいるのは、彼が自身をリアリストと見做すがゆえに現実は正しさを失うであろうということである。彼は現実を信仰している。しかし彼が何を信仰しているか彼自身に分かったとき、もはや何一つ信仰できなくなるであろうことを彼は知っている。そして、それも仕方のないことだと彼は思っている。彼の自由にはならない。知性は触れられるものをいつまでもただ見ているだけにはできない。それは必ず手を伸ばし、そして正しいものを捉える。人間が捉えるものは真実でも、捉えられたものはもはや真実ではない。釣り上げられた魚が死んでいくように真実も網の中で死んでいく。

だが彼は止まらずともよい。止めずともよい。何もしなくてもよい。前進しなくてもよい。予感が彼をして動かすのであった。予感が、彼をして唐突に仕事を放棄させるのであった。

 

2019.02.03