【復刻】思考の不可謬性について

実りある注意を与え,相手が間違っていることを示すには,相手がどの側面から事柄を見ているかを観察しなければならない.なぜならその側面から見れば,たいていは相手の考えが正しいからだ.そして相手にそのことを認めてやり,その上で,それが間違っている側面を相手に示してやらなければならない.相手はそれで満足する.なぜなら自分は間違えていたわけではなく,ただすべての側面を見ていなかったにすぎないことが分かるのだから.じっさい誰にせよ,全部を見ていないからといって腹は立てないが,間違えたいとは思わない.その理由はおそらく,人間は本性からして,すべてを見ることはできないが,やはり本性からして,注目している側面で間違えることはありえないからである.ちょうど,感覚器官の知覚が常に真実であるように.

 

          『パンセ』ブレーズ・パスカル,塩川徹也訳,岩波文庫,下p.268.

 

 

 

思考が誤るということはない.ましてや,ある人の思考が誤っているのはその人自身の知能や直感の鈍さのせいだというようなことは言えない.

思考というのはそもそもコントロールできないものだ.一般には人の考えはその人の自由になると思われがちだが,これは「行動一般」と並列的な仕方で「考える」を把握しているからである.彼がボールを蹴ったのは,彼がボールを蹴ろうと思ったから蹴ったのだ.さらに言えば,彼が自由な思考によってボールを蹴ろうと思ったから,現に蹴ったのだ.「行動一般」についてはたいていこのように把握される.それでは,「考える」という場合についてはどうか.彼がボールを蹴る前に「ボールを蹴ろう」と考えたのは,彼が自由な思考によって「ボールを蹴ろうと考えよう」と思ったからボールを蹴ろうと考えたのか.さらに,彼がボールを蹴ろうと考えようと思ったのは,ボールを蹴ろうと考えようと思おうと思ったからなのか.ボールを蹴ろうと考えようと思おうと思うなんてのは,論理的に,すなわち思考の本性に照らして,破綻した物言いではないか.

つまり,何かを考える前には,このようなことを考えようという意志が働くのではない.何かを考えるときには,例えば意識的にボールを蹴ったりドアを開けたりする時と違って,先行する思考や意志なしにそうするのだ.「考える」という行為には,あれを考えようかそれともこれを考えようかという選択の余地がない.あれについての考えやこれについての考えが,選びとられるのではなく与えられることによって,考えるという行為になっている.だから思考は不自由だ.一般に「考える」ということこそその人の自由であり,「考える」の自由がその人の行為全般の自由を保証するものと見做されているけれども,「考える」は不自由なのだ.

 

思考を不自由なものとしてしまうと機械論的なものの見方に近づいてしまうが,少なくとも次の考えは私は機械論的世界観とともに共有していいと思う.すなわち,思考は不可謬である,というのがそれだ.機械論的世界観では,何事も摂理に従って自動的に生じることになっており,思考も例外ではない.引用中パスカルも言っているように,意外と私たちは知覚に関してはこの自動発生論を素朴に採用している.ある場所にあるシステムをそなえた眼球があれば自動的に目の前の景色を知覚するだろう.「考える」という認識産出システムについても,基本的には知覚と同じような自動発生観を持つのが正しいように思われる.ある状況にある認識産出システムがおいてあれば,自動的にこれこれのことを考えるだろう.このような意味で,思考は間違えるということはありえない.

自動発生するものについては,間違えるということがそもそも意味を持たない.なにしろ,自動なのだから.ただ摂理に従ってある状況が他の状況に移行する.それでは摂理とは何か.摂理というのは,二つの異なった見かけをもつものが実際には同一であることを私たちに知らせる道具である.一般には,自然法則などの典型的な摂理は「因果関係」を私たちに知らせるものだという見方〈も〉あるが,因果関係というのも要するに原因と結果とがある同一のものの異なる二側面だと言っているわけだから,同一性にもとづいた理解なのである.それで,摂理に従って「自動的に」ある状況から別の状況に移行するというとき,始めの状況が間違った状況に移行するということは考えられないわけだが,それは何故かというと,「自動的に」というのはその摂理が正しく機能したということを示す.つまり始めの状況と後の状況とが見掛けの異なる同一物だということを意味している.ある一つのものを見て「これは間違っている」と主張することはできない.「これは間違っている」と主張するためには,隣にある似たものや,頭の中にある似たものや,とにかく何か比較対象となるものがなければそういうことは言えない.「これは同一物だ,だがこれは間違っている」というのでは,意味が通らないのである.

そういうわけで,思考も知覚と同じように自動発生するものだとしたら,間違うということはないのだ.

 

間違った考えなんてない.こういう言葉は人を安心させる.逆に,「あなたの自由になるはずの思考で,あなたは間違って考えた」と言われるのは嫌なものである.なぜ嫌なのか,と問いを立ててみたところで,「嫌なものは嫌だからだ」以上に真実なることをいうことはできないだろうが,それでもなぜ嫌なのかをあえて言うとすれば,思考は自由にならないし私は間違って考えてなんかいない,あなたがそれを理解しないで発言するのが嫌だ,ということは言えるだろう.思考が自由にならないことなんて本当は分かっているはずじゃないか,なのにそれを分かっていないフリをして人を責めるのに利用するなんて嫌に決まっているのだ.

思考は間違えない.理論的にも,道徳上の指針としても,この考えは重要なものである.

 

重要なものであるが,道徳的に有用だからそれ以上考えまいとする力がここに働くのも事実であろう.本当は,この引用はもっと細かく,執拗に見ていくのが望ましいのだ.「人間は本性からして,すべてを見ることはできない」という考えもまた,すべての側面を見たうえでの発言ではない.つまり,道徳的に有用だけれども,完全に正しいといえるものではない.まぁ,そういう話は別の機会に譲らねばならない.

 

 

2019.06.10