【復刻】宗教論1 とりあえず行動する

 

あるいは私はいま、意志に反して書かなければならない。というのも、私の意志は私に何一つ示唆をしないのである。

私が迷いの中にいるとき、私はそれが私をより良いものにしてくれるということ、迷いを享受しなければならないことを意志の力によって知るのであるが、それ以外のいかなることも意志は私に示そうとはしない。

 

なるほど私は自分を大きなものとして捉えすぎている。視界のなかで、私だけが重要なもの、動きのある目立つものとして存在しているかのようだ。

私はこのような考えに捉われることに心底飽きている。もう何度この魅力のない考えは私の心をかすめただろうか。

しかし他に仕様がないのである。私の視界を閉じることは私にはできない。動くものを目で追わないことも、私にはできない。

 

私は私が些細なもの、とるに足らないものであることを知っている。私を捉える妄想とは正反対のものであることを知っている。私は自分が不動のものであり、また何物にも動かされないということを知っている。

知っているがゆえに、より一層苦痛なのだ。

何という苦痛、何たる不幸。私はなんと長い間不幸を経験することか。

 

私はこの不幸を感じることができる。感じることのできない人間も多く存在する中で、私ははっきりと不幸を自覚することができる。

なぜというに、迷いは晴れないのだ。

何かが不足しているようだと言っても、この場所からアクセスできないものについて語るのでは無駄ではないか。

迷いの中で人は端的に動くことができない。さりとて止まることもできない。

 

意志に導かれて動くことは幸運なことである。意志のままに止まることは至福ではないか。

どちらでもない、これが不幸である。

私は私から抜け出すことができないでいるが、私から抜け出せないから不幸であると同時に、不幸だから抜け出せないのだとも言える。

 

とりあえず動く、そんなことはできない。

とりあえず動く、そうすることはできる。

私自身を救うために動いてみるというのではない。何をしようと間違いでしかないのだ。救うことなどできない。そのなかでとりあえず動くことに理由はない。

 

あらゆる行動に理由はない。真理に即していうならば、そうだ。

自然が規定する私と、内側に存在している私との間、しかもこの両者が何の関係も保っていないところで、私は行動をする。

 

だが、今、真理に即して語ろうとすることさえ私にはふさわしくないのではないか。

私は迷いの中にある。そしてただそれだけの理由で、私は私を救うことができない。困難を自分の力で乗り越えることはできない。

その時に私ができることは、語ることではないはずである。私にはもはや語る資格がないのだ。

「それでも、このような状態だからこそ、せめて真実に近いことを語ろう」この気持ちは私が芯から誠実ではないことを示している。自分しか信頼しないという態度表明である。

 

誠実さを進んで放棄することはできない。

しかし、真実に即して行動することができないとき、「最悪でも罪は犯さぬようにしよう」という行動指針を立て、自己を守護することだけを考えて生きるべきだろうか。

このような態度は全く醜いものだ。それ故に私は醜い。私が気にかけるのは迷いそのものではなくて、迷いの中にある自己だけだからだ。

 

罪を意志してはならない。しかし、罪を恐れてもならない。

それが、「とりあえず動く」ことの原理である。

願わくば、私がこれから至る場所が大いに罪深くありますように。

 

 

2018.10.08