【復刻】宗教論2 不幸の分析

なにごとか不幸である人にはみてもらう必要のない話。というのも、これは慰めにはならないから

 

 

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私が悩みのなかを、不幸のなかをさ迷っているとき、何事も私にとって十分な行動の指標たり得ないと感じる。

私は見放されている。

 

このことは真実である。私は間違いなく見放されている。私は間違いなく迷っている。

だが、このことが何を意味するのか。

 

何事も実践的な指標として十分ではない「と感じる」のは、私が現実の私を認識しきれていないからに他ならない。

現実の私は悩みの中にあって何一つ行動できていないかのように感じるが、実際は人は何一つ行動しないでいるということはない。人はいつでも、その在り方としては特定的でなければならない。

だから、迷っている人は、自分で何をやっているのか把握できていないとしても、何事かを行っている。

AかBかを為さなければならない、という状況にあなたがいるとき、Aを為すこととBを為すことだけが「行為」であると考えるのは行き過ぎた図式化である。そのはざまに立って、瞬きしたり、息を吸ったり吐いたり、あなたのすることのできる「行為」は無数にあって、そのいずれかをあなたは必然的に行っているのでなければならない。

 

そして、現に行っているその行為が、本人がどれだけ不服であろうとも、意志に適っていると考えざるを得ない。

そんな馬鹿なと思われる方もいようが、現実はすべて理性的であり必然的である、だからまた私たちは意志に適わないでいるという自由を持たない、そういう前提で私は話しているので、あなたの悩みと迷いがどれだけ確かなものでも、あなたのその在り方だけは少なくともあなたの意志に適っていないということはあり得ない。

(この前提は勝手に選ばれた恣意的なものだと言われるかもしれないが、私はそうは考えていない。どこかの記事で同じようなことを話した気がするが、自由とかそういった事柄に関する事実は同時に肯定的でもあり否定的でもある。私たちは自由であるし、しかも同時に自由ではない。そして、今の話題と関係があるのは私たちが自由ではないという事実のほうだけだ。だからそっちについてだけ話している。)

 

ここに、私たちが現にどう行為しているかに関係なしに倫理的問題が生じてくる余地がある。

確かに不幸は倫理的な問題だ。そこで感じられる実践的な行為指標への要求も真実存在している。しかし、それは不幸の中であなたがどう行為しているかとは直接は関係がない。

 

 

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私が、現在の私の行いをどう捉えるか。それを必然的なものとして捉えることに失敗すればそこに不幸が生じる契機が存在する。

よくある図式では、子供や動物のように行動と意志とが常に一体となっているところでは不幸など起こりえず、思考が媒介することで初めて不幸になる、と言われる。だからそれは大人の人間だけが知る苦しみであり、また思考はリンゴを食べたことに由来する原罪であり、またBradleyも思考なくしては悪はありえないとかそんなことを言うのである。この図式はいろいろな方面から解釈できると思うけれども、こうしてみると倫理という領域の可能性を述べているものとみることができる。

Hegel以降の考えでは思考は概念の必然的な発展に寄り添っているものなので、不幸であることもまた必然的である。それを肯定的にとらえようと考える。だからキルケゴールも「絶望しないことが絶望だ」という。人間だもの、絶望しよう。

 

だが不幸というのは必然的なものなのか、どうか。

不幸は嫌なものである。私は、私のあらゆる行為が私の意志に適っているということを事実だと言っているけれども、私の不幸や私の倫理の世界はいつでも意志に適っているという風には考えていない。(これは説明の要求される大問題をはらんでいる。私の倫理的状態はどのようにしてありうるのか?倫理的状態というのも私の意識の状態にすぎないはずで、それは広い意味で私の行為に含まれるのではないか。それとも私が何を感じ何を考えるかという話になると突然に自由があると言い出すのか?)

私は、私の力だけで、どんな時でも今の自分を必然的なものだと捉えられないものだろうか。そうであれば、私はどんな迷いであっても自力で抜け出すことができるはずなのだが。

 

どんな時でも現実を必然的なものとしてみる、それはある種の悟りの境地ではなかろうか。悟ったことがないので分からないが。

私たちの理性は覚醒時にはむしろ悟りを妨げがちである、にも関わらず、理性にもわかりやすいような仕方でこの境地が表現されることはできる。ニーチェの言う「運命愛」がそれであろう。運命愛というのはつまり、どんな現実でもそれを必然的なものだと受け止めることで、要するに私が言ってきたことと同じなので、わざわざニーチェに言及する必要なかったな、まぁつまりそういうことである。

 

 

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2018.10.11