【復刻】宗教論3 雑念について
観念像に捉われるということ。
*「観念像」、これは何と言えば正確だろうか。雑念? ともかくなんらかの、ボーっとしていると入り込んでくる思念たちのことである。観念「像」という言い方は一般的ではないのでほとんど全く伝わらないが、エックハルトの言い方。
雑念なり思念なり観念像なり、ぼーっとしていると入ってくると言ったが、これは実は嘘だ。ぼーっとしているときに入ってきているようなイメージがあるというだけで、これらはむしろこちらが何かを考えたり考えようとしているときに多く入ってくる。
それらが役に立つということはあまりない、ほとんどが妨害の役割しか果たさない。
観念像は私の心を捉えるからよくない。
だいたい観念に直面して私が恥ずかしくなってくる。これらの受け取り方が重要なのだ。
人格における「恥」や「誉れ」というのはその人格が全面的に受け取らなければならないものだ。
雑念は、私が恥ずかしくなるようなものはもちろん良くはないのだが、反対に私が自信過剰になって得意になるようなものもよくない。恥だけでなく誉れも良くはない。
雑念は全般に良くはない。それらは私から出現するものであるに違いがないが、そのあらわれ方は卑怯である。
私が私の人格のすべてで誠実に受け止めようとしないとわかっているタイミングで出現するのだ。つまり、私がそれらのことを受け止める気がないからに他ならない。
人格の恥というのは私が負う倫理的な負債であり、誉れは倫理的な名誉である。恥については私はどこまでも悔やまなければならない、そうでなければ私は不真面目であることになるわけだが、同時にそうやって正面から受け止めたとき、恥はもはや悪くはない。悪を自ら逃避することなく背負い込んだ時。悪は悪ではなくなるという話だ。
誉れも同様で、そこから私が少しでも逃げようとしている限り、それは私にとってあたかもそれのゆえに私が素晴らしいかのような錯覚を引き起こすが、それを全人格が引き受けるとき、その素晴らしさなどは全く問題でなくなる。
誠実であることだけが人格の徳であり、誠実さは人格に気持ちよさや素敵さを感じさせるものではない、かえって人格からの脱却を可能にするものだ。
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このようなことを書く人間というのは、相当におかしなものにハマりこんでいるに違いない。たしかにそうかもしれない、が、気にしないで生きてはゆけなかった、というだけのことでもある。私という特殊な存在、そこに特殊な思想・傾向・感性を読み込めるような、というものは想定しない。誰だって、私のような遺伝子を持ち私のような経験をすれば私のような人間になるのだ。私のようにおかしなものにハマりこんだ人間になってしまうのだ。現にそうなっている。見よ、この私はこのような先天的・経験的要素を伴ったあなただ。
私という特殊な存在はいない。すべての人間は一般的である。
話題がずいぶん逸れてしまった。つまり、無茶苦茶で到底伝わらない言い方をすると、変なものにハマりこんでいるのは、確かに私だけれども、あなたでもあるのだよ、ということだ。
この考え方は「独魂論」と呼ばれる。呼ばれるというか、私が呼んでいる。
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観念像の話に戻ろう。
観念像は人格の恥や誉れという概念と関わっている。
しかし、観念像に捉われた人格がそれらを受け取るやり方は、決して真正面から受け取るというのではなく、あたかも片手間に処理しようとするかのようだ。
私は捉われているということに完全に自覚的でいるのではない。自覚的になることができれば、正面切って処理することもできるだろう。
そして問題は、私以外の何者かがこうした観念像を私に送り付けてくることはない、ということ。つまり私が私を捉えているのだが、ああ、この手の愚かしさが最も人間をいらだたせるものだ。
いらだつのはその人自身の問題である。これはほぼすべての人が承認するだろう。しかしその人自身の問題はその人の手に負える問題だとは限らない、これもほぼすべての人が認める。
平穏を、どうやったら取り戻せるだろうか。私の人格に関する恥や誉れをどうやったら気にしないで済むか、どうやったら私の人格など問題でないと考えられるようになるか。
この「どうやったら」がいけないのだ。方法なく求めなければならない。方法を考え始めるのはすでにとらわれてしまっている人間だからだ。
しかし、方法なくというのは不可能だ。
たしかに不可能だ。どうやっても「方法なく求める方法」を考えてしまう。
だからこの不可能性は必然的だ。あらゆることが必然的であるように。すべての現実を必然の相のもとに見る。そこに私のできることはない。もしかしたら私が何か変えられるかもしれないなんて思わない。「私」は何もできない。
というのも、「私」が何かできると思っているのは私が人格を気にかけているからに他ならないからだ。
2018.10.02