【復刻】倫理4 謝りたくなる心の弱さについて

謝りたくなる心の弱さ

 

 

人として、どうしても謝りたくなる時がある。わかる。

また別に謝りたくないけど謝らないといけないときもある。

 

謝るというのは極めて倫理的な行為のように見える。私が、私の人格(人格が倫理の舞台である)について非を認めるから謝るのだ、と、こういう風に理解される。

もちろんそうでない謝罪もたくさんある。とりあえず謝っとくということで謝ったり、何らかの意思表示のために謝ることが必要だと考えられているからという理由だけで謝ったりすることがある。こういうのは謝るの社会的な側面である。社会的行為としての謝るである。

 

社会的(および法的)な領域と倫理的な領域の区別が必要だと思っている。ここが区別されなければ、倫理的な問題を話題にしたいときに社会的・法的な事実を持ち出して反論されるというようなことがよく起こる。

この区別は、たとえば責任概念を議論するときなどに持ち出される。人は法的責任を持つので、科された刑罰などを受けなければならない。また社会的責任があるので、立場に応じてふさわしく行為しなければならない。さらに倫理的責任があるので、悪を為してはならない。

この区別の根拠をなにか示唆したほうがいいような気がしてきた。なので少し考えてみた。が、何も思いつかない。そうなってるでしょ、という感覚だけである。こいつは役に立たない。何か思いついたらそのうち話題にするかもしれない。

 

 

★★★

 

 

社会的(および法的)と倫理的との区別が十分に受け入れられたかどうかは分からないが、たぶん十分ではないだろうと思うが、ともかくそれを前提にして話を進める。説明を等閑にするというのは、十分な理解を得ようと思って心して読んでいる人にとって何という不遜な態度か、と思われるかもしれないが、教育課程の途上にある人間に対してはともかく、いったん自分で思考することを開始した人間にとっては、書いてあることを十分に理解しなければならないという規範的な観念はさほど重要ではない。

謝るということにも社会的と倫理的の両面がある。謝罪という行為がもし法的拘束力をもつなら、これに加えて法的な側面もあることになる。

社会的な謝罪というのはわかりやすい考えだ。謝るがもたらすもろもろの人間関係上の影響は社会的謝るの効果である。

私たちは倫理的にどんな状態であっても社会的謝るをすることができる。負い目を感じなくても謝ったりはできるし、逆に謝るなんかじゃとても足りないと思いながら、それでもそれくらいしかできないからと謝る場合もある。

 

それでは倫理的な謝るとはどんなものか。

おかしなことを言うようだが、私の考えでは、人は倫理的に謝ることはできない。

先に、謝るというのは「自分の人格に非を認める」ということだと簡単に規定したが、倫理的な意味では、自分の人格に非を認めて謝る、その行為主体が何者なのかが問題となる。この行為主体こそが、非ありとされたその人格でなければならない。そうでなければ謝るということが意味をなさない。

自分の人格の非を認める、はい、認めました、私はばっちり認めました。そんなことはできない。その人格は何らかの行為を完全に遂行できるほど立派なものではもはやないのだ。

自分には非はありますが、それを認めているだけ私は立派でしょう? いや、立派に謝ろうとするなんて、あなたは自分の非を認めていないのです。謝るその瞬間には少なくとも、あなたは完全に自らの非から目をそらしている。

 

私は、自分の罪から自力で逃れられるほど力強くないが、しかし自力で逃れられないことが非のあるこの私のせめてもの誠実さだともいえる。

「どうしたら許してもらえるの?」なんてセリフがあるが、社会的にはどうか知らないが少なくとも倫理的に許してもらえる方法はない。

非を認めるというのは苦しいことであり、そうやって苦しむことだけが非を認めるという行為である。その意味で、しいて言えば、倫理的な謝るとはただ苦しみ続けること、それ以外ではない。

苦しいから謝って楽になりたい。それはできない。「苦しんだら許してあげる」。

 

こういうことを書くと、やはり田辺元『懺悔道としての哲学』を読まなければという気になる。田辺は、人間の非は自力ではどうしても乗り越えることができない、ただ懺悔しなきゃいけない、すると他力へと導かれるとかいう、それだけだと大乗仏教のような話を哲学的にしている、らしい。戦後の著作なので、戦時期の知識人としての懺悔が表明されている、らしい。

 

人として、どうしても謝りたくなる時がある。わかる。

だが人は、倫理的な意味では謝ることができない。ただ自分の犯したことに苦しむしかできない。

これは、救いを求めてはいけないとか救われてはならないということとは全然違う。救われるかどうかとは別として、私たちは、誠実さにかけて、苦しさに負けて謝ろうとしたりしてはならない。そこに留まらなければいけない。

 

 

★★

 

ところで、それとは別として、こうした倫理的な話をすることは、それ自体倫理的じゃない。倫理的じゃないと思う。

 

私は極めて不道徳なことをしてしまった。今日は徳を積まなければならない。

 

…などといって自らの非を認めようとしてしまった。それをしてはならないといったばかりなのに。今日はもうどうしようもない。死ぬかもしれん。

 

 

2018.10.15