【復刻】倫理5 孤独について

 

孤独の時代

 

 

人は倫理的には孤独である、という主題について考えてみたい。

 

これは現代的なテーマであるような気がする。

今の日本に哲学があるかどうかといわれると、即座には回答できない。その質問の含み次第で回答が変わってくるだろう。だがすべての時代でそうであるわけではなく、歴史的に見ればある時代のある国では、同じ質問に対して、確かにその含みを確認する必要はあるがまぁ間違いなく哲学はあるだろうと言われるような時代もあったろうと思う。そのことがすでに精神的希薄さを示していると言えば言えなくもない。だが精神的希薄さは恥じるべきことではないし、逆に精神的濃厚さが素晴らしさの証なのでもない。どちらも必然的に、ただそうあるべくしてあるのだ、という観点から見れば、ただそうあるべくしてあるだけのものでしかない。

そんな希薄な現代日本において、孤独が人知れず倫理的な主題となっている、ような気がする。

中島義道永井均がこの時代にあって孤独について考えている。中島義道は人生に対してごまかしの少ない生き方を選んだ御仁であり、その苦しみをただただ伝えながら哲学する人である。あけすけであり、彼のいうことに基づいて周りがどんなことを考えるかについていつまでもオープンにしておく人なのだと思う。『孤独について』という著作があり、これは「生きるのが困難な人々へ」という副題がついているが、そこで積極的に孤独を受け入れることを推奨している。永井均は変な哲学者である。彼は時代背景や文脈などとは関係なしに出現して面白い議論を提出し、人々の思考のツボを刺激しておしまい、というような印象を抱かないでもないが、もしかすると彼もやっぱりこの現代の思想を代表する人間であると言えるような面があるかもしれない。孤独という問題との関わりでいうと、彼の「〈私〉論」が理論的な(または思弁的な)側面からそれを取り上げているという面がなくはないかもしれない。世界が実際にどうなっているかというと、この〈私〉、現に〈私〉から開けているのであり、そうでない在り方をしていたことは一度たりともない。そういう話をするのだが、関心が遠すぎて私はほとんど永井の問題点を理解できていない。

 

 

★★★

 

 

ともかく孤独というファッショナブルなテーマがある。

これは、何と言っていいのか分からないが、よいテーマである、そんな気がする。どうしてだか分からないが比較的成熟した精神のもとでだけ立ち現れるテーマだという気がする。

倫理的に問題になるのは、シンプルにしすぎるくらいシンプルに言えば、いかに悩むか、それだけである。悩むことのできる人間は倫理的であり、どこかで悩むということから距離をとった人間はもはや倫理的ではない。

人は倫理的には孤独である、ということの意味は極めて分かりやすく、人は悩むときには独りで悩むほかない、ということだ。

 

ここで重要なのは、倫理的であることが善いわけではない、ということだ。倫理的じゃないから悪いわけでもない。

倫理的であるひとは自らをそうでない人と比べて高潔で繊細だとみなしがちである。さながら清流に住むアユのような自分と比べて、非倫理人間の鈍感さ、考えなさを、川の河口付近に住むボラのようなものとして捉えてしまいがちである。

倫理的な人はそうでない人に比べて、苦しみに自覚的であるというのはその通りだろうと思う。倫理的な感覚を持たない人には理解しがたいようなものであることもあり、その不理解によってさらに苦しみが増すということもあるかもしれない。

しかし、倫理的な人間はその感性を決して手放そうなどとは考えず、倫理的じゃない人間になることを何よりも恐れながら、今日も正常に倫理的感性が機能していることに安堵して生きるのである。彼らはもしかしたら自分たちが生きづらさを抱えていると思っているかもしれない。しかし、何かに躓きがちであることと引き換えに自分が多くの人より優れた・誠実な感性を持っているという優越感を常日頃味わうことができるならば、決して生きづらいものだとは一概には言えない。

苦しみの中においてさえ、倫理的人間は苦しみを愛している。悩めるということは何よりも強力な自己肯定、自分が自分であるということの表示だからである。さらには、他人の苦しみに嫉妬しさえする。苦しんでいないならば自分は優れて倫理的な人間ではないことになりはしまいか、あの人より少ない苦しみしか知らないならば私はあの人よりより少なく倫理的なのではないか、と考えるのである。

 

倫理的な人間が抱きがちなこの高慢さは、それと自覚しても実際はそんなに悩みの種とはならない。確かに私は高慢である、だが、第一に、私が倫理的な事柄に関して優越感を抱くのは決して根拠のないことではない。この高慢さにはいくらかの事実が含まれている。第二に、私は確かに自分が倫理的人間であることを自らの誇りとしているけれども、同時に倫理的であること自体に価値があるわけではないことも理解している。倫理的に優れていることが善いという意味では決してないということを私は分かっている。もし私が自分を倫理性のゆえにいくらかでも「善い」ものとして提示したらそれは私の誤りである。決して私の高慢をなにかそれ以上の価値あるものの表明だとみなさないように。足の速い人が自身の俊足を誇っても、それで彼が自らの善さを示しているとは思わないではないか。どうかそのように私に対しても理解してくれるように。

 

 

★★★

 

 

倫理的な人間は増えてきている、と思う。

と同時に、倫理的な人同士で言葉と感情を共有しあったり、グループを形成したり、理解しあったりということを試みる人たちも多くなってきているのではないか。

悩みと向き合うというのは人が自由に行ったり行わなかったりすることのできるものではない。悩みと向き合うとき、その人がどんな人間であるかが問われる。向き合うことのできる人は向き合うしかない人なのであり、向き合うことができない人は向き合う必要のない人である。ここに、倫理的であることが善いや悪いの問題ではないと言われるゆえんがある。

悩みと向き合うことが意志だけによって操作できる類の問題でないのでこのようなことを言うのは無意味であるかもしれないが、苦しみ・悩みを自分だけの問題にしておけない人というのはまだ向き合い方の足りていない人である。

悩みは本来自分のものでしかない。Bump Of Chickenの『真っ赤な空を見ただろうか』という曲に「アイツの痛みはアイツのもの 分けてもらう手段が分からない だけど力になりたがる コイツの痛みもコイツのもの」とある。分けてもらうとか分けてあげるとか、分けてあげたいとか分けてあげられなくてごめんねとかは全てまやかし。

 

多くの人は倫理的孤独というものを事実として認めるところにまで至っていない。そこに至る難しさはしかし、むしろ本人の弱さよりも世間の側にある。世間が人にそれを認めないよう仕向けている。なぜなら世間は「悩み・苦しみを一緒に引き受けようとする態度」を「優しさ」だと規定しているからである。

だが、世間に促されて優しい態度をとるのは真の美徳だろうか。その態度は優しさの故にではなく、世間的規範のゆえにとられているものではないか。そんなものは美しさではない。

あなたの友人が苦しんでいるとき、あなたは世間へのパフォーマンスのために悩みを一緒に担おうとするべきではない。あなたの感受性に従わなければならない。もしあなたがその人の悩みのために本当に苦しくなったとしたら、本当に心に振動が生じたとしたら、それは同じ悩みを分けてもらったことによるのではなく、「力になりたがるコイツの痛み」が発生したのである。アイツの痛みとは別の痛みだ。アイツのではなくコイツのを悩むことが本当の優しさだったりする。

それじゃあコイツの痛みが発生しないときは、どうしたらいいのか。どうしたらもこうしたらもない。その時はあなたは苦しくはないので、その友人の悩みがどうでも良かったりあなたが実際に優しくなかったりしたのだろう。そのときあなたは優しい人だとみてもらいたいと思うかもしれないが、実際に優しくない以上、優しいですよという顔をするのは不誠実である。

なお、私はあなたが実際に友人に対してとるべき態度、語りかけるべき言葉についてしゃべっているのではない。あなたが自身に対してとるべき態度を問題にしている。あなたが友人の悩みに特別心を動かされなかったとき、自分自身に対して「俺は心を動かされたよな、俺はアイツのことを心配したよな、それで俺は俺の悩みを心に抱いているよな」と言い聞かせるのが不誠実だというのである。自分が優しくないのだと認めたくない、そういう恣意性は簡単に人の心に生じるが、そんな恣意性は真実とは関係がない。

だからやっぱり、倫理的孤独を認めないのはその人の弱さである。なんやかんやあって世間的に善いとされているもののせいで倫理的孤独を端的な事実として受け取れないと考える、その弱さである。そこで考えるのをやめて世間のせいにしてしまう弱さのせいである。

とはいえ、道徳とは元来「私のことを疑わないでね」と絶えず懇願してくるようなものなので、良い人であればあるほどそれを疑うのは難しい。その意味でやはり世間と道徳のせいでもある。

 

どちらのせいでもいいのだが、人は倫理的には孤独な存在である。その認識は人を悩み苦しみに正面から向き合わしめる。

苦しみを自身の苦しみとして真正面から向き合えば、その時もはや苦しみは苦しいものではなくなっている、とたしかエックハルトが言っていた気がするが、容易ではない。私はもっと真剣に孤独になることを私に勧める。

 

 

2018.10.28