【復刻】倫理6 私をして善ならしめよ

 

いい人だとか悪い人だとかいう言い方について。

人について(人の人間性、その中心となる部分を以下「人格」と呼びます)、それがいいとか悪いとかあるのでしょうか。このように問うとすぐにある種の極端な事例を考え出す人がいるかもしれませんが、たとえば享楽的殺人者とかそういうののことですが、そういう極端な例は私たちの生活圏にはとりあえずそうそう存在しないので話から除外しておきます。除外しておくのはこの人たちが私が述べることの反例となって私が例外とみなさなければならなくなるからではなく、極端な事例の特殊性につられて話が意図せぬ方向に引っ張られるのを防ぐためです。私はこれほど読者というものを信用していないのです。つまり私の話に都合が悪いからではなく、「でもこういう特殊な事例もあるじゃないですか」という言いがかり以上のものではありえないつまらない反論を避けたいがためにそういう人の話はやめようと言っているわけです。

 

言い訳をすると長くなります。結局話が全然進んでいない。もっと読者を信用することにしましょう(嘘です、私はあなたを決して信用しない、なぜなら私の語りを私が期待したいほどの水準で把握してくれた人はこれまでただの一人もいなかったからです)。

さて、人格について、それはよかったり悪かったりするものなのでしょうか。

 

何かを認識するには必ず「図式」的なものを必要とします、というのはカント以降の知識人のほとんどすべてが合意するところです。ここで、一つのとても根深い「図式」がありまして、それは認識の対象を「主」と「属」に分けて捉える、というものです。主と属、あるいは実体と属性、あるいは主語と述語、あるいは物質と色・香りetc、あるいは人間と性格。

つまり、ある人について、あたかもその人自体がいいとか悪いかのように言うのは、この図式の支配を受けている、そう私は言いたいわけです。その人間の中心にある核となるのがその人の人格、そしてその人格というのは優しかったりズルかったりするわけです。

 

Bradleyというイギリスの気怠い哲学者がこの図式を取り上げて言うには、こいつはappearanceだ、と、つまり完全無欠ではない、どこかで自己矛盾を来しているぞと、言っております。Bradleyは完全に気怠いおじさんなので、間違っているからといってこの図式を用いて考えられたもの全部よくないとか、この図式を使って思考しないようによくよく気を付けようとか、そんなことは全く考えない、ただ完ぺきではないぞ、そう述べるだけです。だからといって、これからは別様こんなふうに考えるといいぞ、と言うわけでもない。

私も、基本的に何かを提言したり、そんなことを考えているのでは全くありません。

が、ある人はその中心に人格を持っていて、それがあれこれ特性を備えているとみる思考は好きではありません。

 

 

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「根はいい人なんだけどね」

このフレーズが何を意味しているのか私には分からないわけですが(私に分からないフレーズというのは世にたくさんありまして、たとえば「自分のしたいこと」や「相手のことを考えて」など、よく分からない)、とりあえず「根のいい人」と「根の悪い人」がいるということが前提されていると思うのですが、根が悪い人ってどんな人なんですか。

普通の人は普通の状況が用意されていればある程度善良にふるまうわけです。一説によると、それは人間がある程度合理的だから、と言われることもあるでしょう。つまり、理由もなくよくない振る舞いをしたら周囲の人間に悪く思われて自分自身の信用という価値を損ねてしまう。何もないところではだから人はある程度善良にふるまうのが当然なのです。

根が悪い人というのは、それでは、上に述べた特殊な事例にあたる人たちのことでしょうか。私は、そういう人たちも別に「根」が悪いわけではなかろうと思います。よく言うではないですか、「犯罪なんてしそうな人に見えなかった」と。そういう人はたまたまある一度のきっかけを(こう言っては何ですが)ものにしてしまったがために犯罪を犯したのであり、もしその一度のチャンスをたまたまものにすることがなければ、犯罪なんてしそうにない人なわけですから、おそらく犯罪なんてしないわけです。そうするとその人の根はよいのか悪いのか、犯罪者になった場合は根も悪かったということになり、犯罪なんてしないで日々の穏やかな暮らしを継続している限りでは根もいいということになるのか、そういう花を見て根を判断するの原則が、「根はいい人」という表現には含まれているのでしょうか。それなら花だけ見ればよかろうと思うわけです。ここでは花は行為やその結果のことを指していたわけですので、良い行為だ、悪い結果を引き起こした、そういう風に言えばいいのであって、根すなわち人格にひきつけて善悪を語る必要はなかろうと思うのです。

 

犯罪者の話題に触れたので少し脱線。

今年は脱獄囚のニュースが二度ほど大きめにとあげられたような気がするのですが、このようなニュースの効果の一つに視聴者を怖がらせるというものがあると思っていまして、現に私も何度か「こわいねぇこんな人が近くに潜んでいたら」なんていう語りを聞いたわけです。

こういうセリフを吐く人がどこまで本気で言っているのか、多くの人は単に動物的な仕方で(思考を経由せずにその場の雰囲気のためだけに語りだされる言葉を私は、蔑みを以て「動物的な」語りと呼んでいるわけですが)言っているだけじゃないでしょうか。それとも本気で怖がっている人もやはりいくらかはいるのでしょうか。だって、脱獄囚より普通の人間のほうが明らかに怖くないですか。

だって、脱獄囚は目立つ行動はとれないわけですし云々……いやしかし、脱獄囚は金とか衣服とかに困っているから云々……そんなことを言えば貧しい人間はそこらじゅうに云々……いやいや犯罪者というのはもともと犯罪を犯す傾向が強くて云々……。

ここで述べられうるようなあらゆる理由はどうでもよくくだらないものなので、最終的には今日は平和だな、ああ全くだ今日は平和だ、で終わるわけです。脱獄囚が近くにいて自分がその人の再犯に巻き込まれるかも、そういうファンタジー的願望の発露だと思えばまぁかわいいものですが、しかし実際のところどうかというと別に刑務所経験も何もない私の周りの盆用たる隣人たちのほうがはるかに怖い、なにしろその数が多くて距離が近いわけですから。脱獄ニュースに「怖いねぇ」と応じる人が隣人に警戒心を以て応じないのは理不尽だと思うのですが、だからこそ「犯罪なんてしそうな人にみえなかった」になるわけでしょう。このセリフは言い訳に過ぎないわけです。何のための言い訳か? 脱獄ニュースに「怖いねぇ」と応じる権利を得るための言い訳です、世間並の思考停止を身体化させていることの言い訳です。

 

閑話休題シテ本題ニ復ス。

「根はいい人」の話でした。並の犯罪者では依然「根は」いいと言われうるかもしれないが、もっと極めて残虐な犯罪者だったらどうかという方向に話が向きそうですが、先に断っておいた通り、こういう特異な事例については話すことを避けさせてもらいます。個人的には、そういう人でも「根が」悪いわけではなかろう、というより「根が」悪い人間なんていないだろう、だったら「根はいい人」という言い方はそもそも無意味であろうと考えているのですが、そう主張するためにはいろいろ不足しているので、主にそうすることへの興味とかそれらが不足しているので、その主張はまたにとっておくことにします。

「根はいい人」という言い方も、結局「人格」と「それにくっついているもろもろの性質」という図式が根底にあるわけです、それでここでこの話をしたわけです。

 

 

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私は別によい人間でも悪い人間でもない。「その中間だ」と言っているのではなくて、ここまで辛抱強く読んでくださった方ならお判りでしょうが、そもそもよかったり悪かったりするものがそこにはない、そういう考えでいます。

 

こと一人称の人格に関しては、それを悪く思うことは苦痛であると同時に快感でもあります。私は悪い人間だ(だってそう思わずにはいられない)、そういう気持ちは根強いものです。しかしそれは考え方としては完全ではない、というのも私という確固たる常時不変の人格が存在するわけではないから、と考えたからといって、この根深い思考から簡単に抜け出せるわけではありません。

自分のことを悪い人間だ、と思うのは、一方では苦痛なのですが、一方では快楽です。言ってしまえば、その程度のレベルで自分を精いっぱい悩ましてあげられる代わりに、もっと深いレベルでの悩みには目を向けなくて済んでいるわけです。

しかしながら、さらに言ってしまえば、あなたが自分を悪く思っていて、そのことによって苦痛と快感を得ている姿は、あまり魅力にあふれてはいないのです。なぜというに、結局根底にある図式が完全でないので、それに強くこだわっている姿が美しくないのでしょう。

 

私はいろいろな性格を発現します。みんなそうであるはずです。

嫌なことをつい言いがちであるときもあれば、この夜で最もウィットに富んだジェントルなマンである場合もあります。

どこに身を置くかによって振る舞いが変わるのです。

つまり、私は、自分の人格が悪いとかいいとかいうことは信じていないので(このように信じることは強い自己肯定であります)、私の性格が悪い時、悪口を言いたくなったりするとき、私は今いる状況が愉快でないのだと判断します。

いい人になりたければいい人になれる環境に行きましょう。私をして善ならしめよ!

 

周りの人のことを判断する場合も同様です。

その人は別に悪い人ではない、にも拘らず口が悪かったりしたならば、あなた含めその環境がその人にとって愉快でないのです。社交的な人は表情を誤魔化す程度の演技は朝飯前ですので、愉快そうにしていても実は不愉快であるということもあります。本人すら気づかぬうちに不愉快していることも往々にしてあります。

人を信じるというのは、あるいは、すぐに人間の人格について評価するのでなく、その人間の多面性を信じることではなかろうか、そんなこんな話。

 

 

2018.11.20