【復刻】倫理7

 

私がよいと思うものをよいとするのは決して悪いことではないように思われる。が、これは一見してそう思われるだけで、よいものはよいとしてそれで収まるとして、それでは悪いものは悪い、遠ざけよう、そのようにすることもまた問題ないのであるか。

私が悪いと思うからこれは悪い、そんなことをはばからずに言っていると、お前は何様だということになる。そんなにお前は正しく判断できるのかと。しかしそれを言うならいいものを褒めるのだって同じく「何様だ」ではないか。

このように考えると、よいと思われるものも殊更によいと言わないほうがよいのではないかという気がする。よいと思われるものにも心惹かれないように気をつけておかなければならないような気がする。

 

人によっては、よいものをよいと思うことを積極的に肯定する向きがある。積極的に価値判断を下していこう、とくによいと思われるものについて積極的に肯定的な判断を下していこう、そういう姿勢の人間がいる。

人のいいところをたくさん見つけていきたい、またそれが楽しい、そういうのはきれいごとでないだろうか。

そういう人間の目にも、よいと思われるものばかりが映っているのではない。悪いもの、醜いものも映っている。よいものをよいと判断する場合には必ず悪いものを悪いと判断してもいる。よいと思われるものだけを言明して悪い汚いものにはあえて何も語らずの態度を貫くとしても、語らないことがそれを悪いとみなしていることの表明である。

 

それで何が問題であろうか。私が悪いと思ったものを悪いと言って何が悪いのか。

悪いのである。お前は全能ではないがゆえに。

あるものが絶対的に悪いということはない。それゆえ、あるものを悪いと判断するとき、その判断は常にある意味では間違っている。もちろん人が完全に間違った判断をするなどということはありえず、どのような判断も必然的であるから、多くの面でそれは正しい。しかしやはり別の面では間違いなのである。

それなら、全面的にとは言わないが、ある一面ではこれは悪いと判断することは許されるのではないか。なるほどそういったことが可能であったならばそれで良かったかもしれない。しかし悲しいかな、人は有意味な仕方で「一面的にはよいが、他面ではやはり悪い」と述べ立てることはできない。本当にできないのか。そう、できない。

 

まとめると、何かを悪いと判断するとき、それは常に間違っているに違いないので、その判断へのコミットメントは極力控えるべきだ、というのが拙論である。

間違った価値判断へのコミットメントは控えるべきだ、そういう前提がここにはある。なぜこのように前提されるのか。

これは、このように感じる人間の内側からしか説明されえない。なぜ「私が」このように感じるかというなら、不肖私が「倫理的」だからであり、このように感じない人は(私が常々問題にするような意味で)倫理的ではないことになる。これが倫理的な人間の内側からしか説明されえないというのは、その内側をいったん離れてしまえばこの前提自体妥当でなくなるということでもある。間違った価値判断へのコミットメントは控えるべきだ、そのように言われてピンとこない人にとっては、この命題は妥当ではない。つまり、そのような人は価値判断が間違っていようが正しかろうが、自分にはそう感じられるという理由だけでコミットするに十分なのである。

人は基本的に倫理的である必要はない。「なぜ人は倫理的であるべきか」巷にはそういう有名な問題があるそうだが、この問題はそもそも不当な問いであって、別に人は倫理的である「べき」ではない。現実としてそうだったりそうじゃなかったりするだけだ。

 

そういうわけだから、そもそも話がピンとこない人がいてもおかしくはない。間違ってほしくないのが(とか言いながら私は如何様に誤解されても一向にかまわないのだけど)倫理的なのが善い、倫理的じゃなければ悪い、ということは全くない。さらに、自分で自分のことを倫理的だと称することで、何らか自身の優越を誇示しようというのでも全くない。こればかりは本当にそうでない。そのように解されると、私はもはや自分がしゃべることの罪深さに打ちひしがれて何も語れなくなってしまうだろう。だが現にしゃべっているということは、私が打ちひしがれていないということであり、それはつまり私が価値中立的にしゃべっていると私自身が考えているということであり、それはつまりこれらの語りを価値中立的に解釈する方法があるということを意味する。

 

三段落前の話に戻ろう。問い、私が悪いと思ったものを悪いと判断して何が悪いのか、答え、そりゃあ悪いよ、間違ってんだもの、そういう流れであった。

ここにもう一言付け加えるならば、悪いものを悪いと判断する場合だけでなく、よいものをよいと判断する場合も全く同じ理由から悪い。

つまり、よいねとか、あれはよくはないね、そういう判断をするのが概して悪い。そうして、つまるところ、生きてることが悪い。死ねと言っているのではない。悪いよね、そうね残念ながらね、と言っている。それでおしまいで、それ以上の含みはない。

 

よくわからん人も少しはわかるという人もいると思うが、判断することが、つまりそれだけの知恵があることがそもそもどうして「原罪」だと言われるのか、その一解釈だと理解してもらえば少しはわかる人の割合が増えるかもしれない。

倫理的なことを語るのはそれ自体倫理的に悪い。そういう考えがずっとある。これまでおそらく10人以上の人間にそのようなことを言ってみたが、「分かる~」という人はいなかった。それでも私がそれをまだ疑わず保持しているのは、本の中に同じ考えを持った人間が確かに存在するからだ。

 

 

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距離感の話がしたかったのだ。

あらゆる判断はどこかしら必ず間違っているけれども、それを全くせずにいるというのは無理な話だ。

あれはよいねとか、よいと思うことがあれば必然的にこっちは悪いねとか思うわけだが、そういう考えが浮かぶのは仕方がない。仕方がないというのは消極的な、できればないに越したことはないのだがという意味ではなく、あってしかるべきだと思っているのだけど、ともかくそういう判断にあまり強くコミットしないようにしたいねという話なのである。

 

人によってはコミットメントがあまりに強くてほとんど判断とその人自身とがゼロ距離であるような人がいる。自分の判断を、それが口からこぼれるや即座にそうと思い込むような人である。あるいは、本人は自覚がないにしろ、自分の言を信じ込むことを好む人なのである。

これらの人は客観的に自身を見るという意味での自己知を欠いている。自分の言ったことを信じて省みる機会が少なく、さらに価値判断となれば自分が善であるとさえ考えるようになる。

が、もうそれはそれである。そういう人はそういう在り方として理解するほかない。

 

そういうふうに陥らないよう、自分の判断を信じ込みすぎないようにしていたいと思う。

結論としては、だから、そういうことになる。「疑う」といふこと、それが肝要である。

疑うということについてさらに何か言おうかとも思ったが、どうも「日々の心がけ論」的な、規模の小さい啓蒙(これを現代では啓発と呼ぶそうだが)的な話になりそうで、まったく書く気がなくなってしまった。

本当に、他人に影響を与えようと意図して文章を書く人間の気が知れない。どうやったらそんな気持ちになるのだろうか。私は、そういう人があまりいなければ、他人に何事か大事なことを伝えようと思っている文章自体を特段嫌悪することもなかったと思うが、いかんせんそういう人が多すぎるので、それらの人たちへの嫌悪感からそれらの文章自体にも嫌気がさしてくるようになってしまった。

しかし同時に、この点ではものを読む人間のあり方というものを信頼していて、書き手が「何か」を理解してほしくてものを書いてもそれを書き手の思った通りに理解してもらえるということはまずない。文字から何を理解するも読むほうの自由である。

だから文章自体を忌避するのは不合理なのだ。忌避すべきは「何か」を伝えたいといってものを書く人の傲慢さだけでよいはずなのである。

 

 

2018.11.24