【復刻】猿電車に乗る

 

電車に乗るとき私はいつも判断力の鈍る感じがします。

 

あまりに秩序だったものを目にすると、思考するということが一定以上できなくなるようです。つい反乱でも起こしたくなりますね。こんな状況で反乱というものがあり得るとすれば、それは反乱の先に何かを見据えてというわけではなく、何も見えない状態からの脱却だけを考えてただ暴れるという感じになるでしょう。猿です。猿は今日も電車に乗るのです。

 

なぜこのような感じがするのか。理由は簡単で、倫理観とは頭のなかの秩序のことだからだろうと思います。倫理とは思考に制限をかけるもの。倫理的であるとは、他の倫理的な人と同じように考えるということです。

非倫理的な行いよりも不倫理的、つまり倫理というものを分かっているのか分かっていないのか分からないような振る舞いが何よりも恐ろしいと思うのは、不倫理的な人間は理解の外側にいるからです。非倫理的な行いをした人であれば、同じ倫理観のもとにいる同族として思いやったり事情を察知したりもできます。あるいはその行いに至った勇気をひそかに褒め称えたりもするかもしれません。不倫理的だとそうはいかない。こういうものは徹底して倫理的な目の監視下に置くしかない、と人は考えます。

 

駅と電車のなかは倫理が最もよく(かは分かりませんが)目に見える形で現れる場所だろうと思います。なぜか。身体と身体の距離が異様に近いから、ということ以外の理由は今のところ思いつきません。普通生活する上では許容されないほどに近いのです。

電車のなかの人の振る舞い方の一様性は本当にすごいと思います。そう思いながら自分もそれに従ってしまうのですから、いよいよすごい力を持っていることが分かります。ホームで電車を待つときの前の人との距離のあけ方、乗り込むスピード、座席の取り方、座席での身の屈め方、スマホの持ち方など、まさに全くの画一化、学校で教えるどんなことでもここまでの成果をあげることはできないと思うほどです。このように指摘するのも全く新しいことではなく、十何年も前から同じことが繰り返し漫画や本やドラマで言われ続けているにも拘らず、そしてそれが繰り返される理由はこのような画一化された振る舞いに我がことながら危機感に近い滑稽さを感じているからに他ならないにも拘らず、それでも人は今日も同じ仕方で電車に乗るのです。おそらく車中で知能テストをしたら平均的はだいぶ下がるのではないかと思います。

 

典型的には電車のなかのような状況で判断力が下がるように感じられる人は、倫理的な人で、かつ身体のコントロールができていない人だろうと思います。身体が勝手に均質化された慣習に倣うものだから、おいおい誰の許可を得て動いてるんだと感じるわけですが、かといってどうすれば自分の思い通りに身体が動くのか分からないので、意志が引っ込んでしまう。自由な意志の助けなしでは、思考は碌に働くことができません。思考の仕事は主に与えられたものについて判断することですが、これはほぼ自動で行われます。それはちょうど知覚が目の前にあるものを自動で見分けるのと同じことです。だから、思考にとって大事なのは、「どのように」判断するかではなく「何を」判断するか、なのです。これは思考が自分一人でどうにかできることではありません。何について思考するか、ここに自由な意志の入る余地があるのです。思考をどこから出発させるか、そこにだけ自由があるとF. H. ブラッドリーが『論理学』で言っています。だから、意志が引っ込んだ状態だと、まともに対象が与えられないので、碌なことを考えないわけです。電車が目の前を通り過ぎるとき、あるはずもないのに、誰かが後ろから突き落とそうとしてくるんじゃないかなんて考えるのはこのためです。

きちんとした身体性が備わっている人は、こういう事態にはならないのだろうと考えられます。駅と電車の中で求められる振る舞いを自分のものとして再現できると思われるからです。坂口安吾が、天才は外的な条件を内的な必然性に変えることができると言っていますが、スケールの小さいところではこういうところでの振る舞いにも人間の超越的な在り方の片鱗が現れるわけです。

 

と、このように多少分析を試みるだけでも、明日からただ身体を空気に隷属させるのでなく自覚的に動かしてみようとか、自分の思考力の低下を観察してみようとか、ほんのわずかに生産的なマインドセットになりますので、お試しください。終わりです。

 

 

2019.06.24