【復刻】そういうのではない

 

こういうドヤ顔が好きでない。こういう仕方で無駄に自信満々になることが善いことか。この手の情報を求める人は結局はこのドヤ顔を追い求めているのかもしれない。

能力。なんだろうか。よい人材を目指すとは「よく使われる」ことを目指すことだ。人材であれ木材であれ、the purpose of them, as such, is to be used. この’as such’が重要、つまり人材が人材であるうちは使われるために存在する。使われるといってももちろん人にではない、社会にだ。ここで人に使われるまでが人材、自分で人を使うようになればもはや自分は人材ではないと思えるのならおめでたい。社会はどの個人よりも大なり。社会がいいかどうかも分からずに仕えるのでは、相手が天使か悪魔かも知らずに慄き奉仕することと変わらないのじゃないかね。

でそれが何だというんだ。いやいやもちろんだからといって何だということはない。よい人以上によい人材を目指すのが悪いだなんて言わないし、思わない。何なら私は君が思うよりもっとラディカルだって言ってやろうか、私は悪魔に仕えるのも悪いとは思わない。何であれ個人より偉大なものは個人に敬われ誠心誠意奉仕される資格がある。だけどあなた、こんな能力身に着けたいと思ってる、世にいい人となろうとしているあなたは考えたことがあったか。あなたが何に仕えようとしているのか、その必死さが何なのか、誤魔化さずに考えようとしたことがあったか。

 

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シュルレアリズムは“作品群”になった、美術館で展示されているのだもの、「シュルレアリズム展」なんだもの。展示するくらいなら写真だけ残して焼却したほうが真理に即している。「諸君が私の作品と見做したものは、私自身の残り屑でしかなかった」(アントナン・アルトー「神経の秤」)。

シュルレアリズム本来の力とは、意志とは何だったか。人間に本来のもの、失楽園以前のもの、を取り戻すための啓蒙、と扇動。「この劇を見たなら、今すぐ街に出て革命を起こせ!」そういや革命という言葉も安くなったものだ、いま革命という語と響きを聞いても、誰もまさか革命のことを意味しているとは思わない。革命自体は私たちの誰も知らない、未知の概念で。認知されないことには始まらないからと言って流行らせること、安売りすることで逆に人々を骨抜きにしてしまうのだから、啓蒙も考えものである。

社会はあなたにあなたのものでない服を着せる。服はあなたの身体性を変える。動きにくい身体のせいで追いつけない男性と、ハイヒールとスカートのせいで上手く逃げられない女性、のスケッチをピカソが残しているらしい。「これはそもそも男が追いかけたりしなければいいのよ、そんな身体で向いていないことを必死にやるなんて」「それを言うならあんただってさっさとハイヒールを脱げばいい」いやいや結局、この現状が一番の落としどころじゃないか。気持ち悪い男の追跡と、不器用な女の逃走。男だって追いかけたくて追いかけているのではない。女の逃走が自然なものであるのと同じくらい男の追跡も自然なものだ。どちらかだけが解放されるということはない。立場が逆転したら、女は追いかけるのをやめ、男は窮屈な衣装を捨てるか。止めないし、捨てない。望むと望まざるとに拘わらず。

先日とある大学祭にちょっと立ち寄ったときに思ったのだけど、女性の服の傾向が少し変わってきているような気がした。まだ他の人の証言を得ていないので何とも確証はないが。もし他の人も同じように思っていたら少し調べてみたいと思うが、簡単にいうと「今のこの状況でどうすれば一番うまく生きられるか」の抜け駆け戦略を追求する路線上にあるようだ。閑休。

シュルレアリズムは失敗した。エロのモチーフを使いすぎたというのもかなり大きい。しかしその思想はどうか。やはり失敗した。何しろ、「人間本来のあり方、思い出して」、そんなもの思い出していたら、出遅れてしまうじゃろうが。私たちはよい人材になるのに忙しいのだ。上手く生きるんだ、この社会で。失楽園以前とか自由と理想の世界は死後転生してから考えても遅くはない(昨今小説家になろうのコミカライズが甚だしいと聞くが、漫画はある程度世相を表す)。

それは全く悪いことではない。「晴れ渡るそらを見てると 自分が小さくなったみたいで それは 全然悪いことではない と思うよ たぶん、ぜったい」(森山直太朗「群青」)。シュルレアリズムの思想的失敗の最大のものは、こういう「服を着た」生き方が全然悪いことじゃないと真剣に思わなかったことである。ということにしておく。悪くないものに強く反動的にアクションを起こそうたってそれは難しい。

しかし悪くないものも過分になると悪い。エレベータは乗りすぎるとブザーが鳴る。じゃあ誰が下りるか、おいお前降りろ。どうしよう降ろされちゃったよ、階段でいくか、急げ!いやいや待て待て、それでいいのか。それでいいのかどうかを、あなたにはあなたの思考を経由して決めてほしい。

 

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私たちを解放するものはあるか。こんな「賢く」なるための本はだめだ。そんなのはうまく服を着るコツしか書いていない、余計に脱げなくなるぞ。じゃあ何だ、私たちを解放するものは(「解放」とは、上の男女のモチーフで女性が望むのとまったく同じような「解放」のこと。)

家畜としての豚は不幸なのか。時々言われるように、家畜として生きることでこれだけの個体数を地上で実現させている動物たちは、ある意味で生存競争の勝利者である、一番手ではなくとも上位の勝利者である、ともいえる。食事はもらえて外敵はいなくて死ぬときは安楽死。それでも豚は不幸か。「私には不幸に見える、私はそんな豚にはなりたくない」。いやいや今は、豚に聞いているのだ。豚であることは不幸かと。豚が自問したら何と答えるか。そんなら私たちが自問したら何と答えるか、私たちは不幸か、と。

満足な豚よりも、不満足な愚者。満足な愚者よりも、不満足なソクラテス。それなら満足なソクラテスと不満足な豚ならば、やはり不満足な豚のほうが幸福だろうか。満足だけでは幸福になれないことはみんなよく知っている。さぁ不満足な豚は幸福か。幸福でないとしたら、なぜ、豚だからか。それならただ豚より愚者、愚者より賢者と言えばよかろう。

 

だんだん話が気持ちのよくない、嫌悪を催すものになってきた。分かる。その嫌悪感もやはり悪いものではない。さらに言おう、それは服を着て生きるに「適して」いる。だが知らなければならない、そういう嫌悪感が、私たちがいま何をしようとしているのか、どこを目指しているのか考えられなくさせているのだと。嫌悪を感じて、現実を脅かそうとする何物かから逃れることが、あなたをより一層「満足な」生き物にするのだと。

 

 

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つまり、そういうのではない。能力を身に着け、よき人材よき人となって、個性的な人となって上手く生きていこう、「みんなが輝ける世界へ」。そういうのではない。悪くはないけれど。

何も、本当に、悪くはない。だから解放もいらない。すべてなるようになる。すべてなるようになる中で、私は何だったのか、世界はどんなもので、私はどう生きたのか。それを知っておきたい。それだけなのである。

 

 

2019.06.21