【復刻】役に立たないさん

 

  • はじめに

 

こんにちは。

川で小魚を見つけ出すことに定評のある私です。

 

「私は、あまり人の役に立ちたいと思っていません。」

 

と聞くと、どんな印象を持つでしょうか?

ひょっとすると、あまり良くない印象を受ける人が大半だったりするのかもしれません。

 

しかし、私はむしろ真面目だなぁという印象を持ちます。その人はたぶん自分自身に対して真面目なんだなぁ、と思うのです。

 

そして、私は実際に人の役に立ちたいという気持ちがあまりありません。

 

人の役に立ちたいと思うことって、どれだけ大事なんでしょう? 「実際に役に立つこと」ではなくて、「役に立ちたいと思うこと」です。

そんなの別に必要なくね? というのが今日のお話。

 

 

  • 人の役に立つ、とは…?

 

そもそも、人の役に立つって、何をすることでしょう?

…こんなことを言い出したら、おそらく話がどうでもいい方向に延々拡散していってしまうでしょう。

しかし、私はある一つの、極めて普遍的な「人の役に立てる」行いがあると思っています。

それは、自分を相手よりも道徳的・社会的にみじめな人間にすることです。

おやおや、なんて嫌な奴なんだ! と思われているかもしれませんが、まぁ続けます。

 

人間を普遍的な仕方で救うことができるのは、上や横にいる人ではなくて、下にいる人間なのではないか。この上とか下とかいうのは、人がどれだけ恵まれているかとか、尊敬されているかとか、社会的地位とかの順序です。

もちろん上や横からでも手を差し伸べることはできるかもしれませんが、それが必ずしも人を救ってくれるかというと、そうとも限りません。何しろ上や横にいる人は自分よりも強いので、下手をするとダメージを負ってしまう。差し伸べられた手の取り方を間違えれば、不機嫌にさせてしまったり怒られてしまうかもしれない。

その点、下にいる人間は自分よりも弱いので、弱い人間がいくら喚いたって自分は傷つくことはないわけです。手の取り方を間違えても、少なくとも踏み台かクッションにはなってもらえる。

さらに、もし上とか横とかの人が自分の窮状を救ってくれたとしても、今度はそのことが借りになって、いつか恩を返さなければならないと考えることになる。

その点、下にいる人間に対しては「助けてもらった」と考える必要がそもそもないので、恩を返すだとかそんなことをプレッシャーに感じる必要もない。

 

ああ、まぁ、本当になんて嫌な奴なんだ! と思われていそうですが、なお続けます。

上で言ったことは比喩に終始しているわけですが、綺麗事を脇に置けば、自分の境遇を辛いと感じている人が、自分よりもさらにみじめな人間をみて励まされるということは実際にあることだと思います。

こうやって励まされること自体の善悪は今は問題にしていませんが、私は、下を見て慰められることが悪いことだとは思いません。現実に辛いわけですから、その辛さが少しでも緩和されるのであれば、方法を問わずそれは良いことと言うべきでしょう。

 

みじめな人間が何でもかんでも解決してくれるわけではもちろんありません。

しかし、みじめな人間が行う救済は、普遍的で危険がない。これに比べて、上や横からの救済は、偶然や気まぐれに左右されるし、助けるどころか逆に傷つけてしまう危険がある。

 

だから私は、一番人の役に立つ人間というのは、誰よりも一番みじめな人間なのではないか、と思うのです。

 

直接・間接・書物等を通して、僕が知っている限りで、この理想に生きた人、つまり本当の意味で「人の役に立とうとした」人というのは一人しかいません。

エスです。

さぁ宗教的な匂いまでしてきました。いよいよやばいかもしれないですね。

やばいと思われるとこちらもやばいので、イエスの話は置いておきます。遠藤周作『イエスの生涯』あたりを読んでみてください。いや、実際、私もこれしか読んでないんで。

 

 

  • 「人の役に立ちたい」なんて、先生、ご冗談を…

 

さて、人の役に立ちたいという気持ちについて。

もし、本当に人の役に立ちたいのだったら、誰よりもみじめな生き物になればいいと思うのです。きっと満足が得られます。

もちろん私はそんなこと全然したくない。誰だって嫌でしょう。誰だって、そこまでして人の役に立ちたいとは思わない。

 

そこまではしたくないけれども、しかしやはり人の役には立ちたいという人がいるかもしれません。

そんな人は、ぜひ一度、自分が本当は何をしたいのか考えてみましょう。

なぜ私は、困っている人に横から、あるいは上から手を差し伸べたいのか?

手を差し伸べる理由は様々あります。感謝されたいとか、人助けしたという気持ちになりたいとか、その人が辛そうにしているのを見たくないとか、あるいはそうすることが良いとされているからとか、本当にいろいろあります。

だから私たちは可能なら助けようとするのです。私もやります。むしろやらない理由がない。感謝されると気持ちがいいし、友達が困っているのは気持ちがいいものではないですからね。

 

しかし、これって人の役に立つことなんでしょうか? ほとんど、自分のためじゃないですか?

(そう、これはとても大事なことです。つまり、自分のことを十分に気遣うだけで、人はとても親切な人間になれるのです。自分のためを思って行動すれば自然と周りの人にも親切になれるのですから、自分を大切にするのは全く悪いことでも独善的でもなく、良いことです。どんどん自分の気持ちのいいように行動しましょう。)

自分を十分に気遣うことはとても良いことなのですが、その結果誰かに何かをしてあげることができたとして、それを「人の役に立ちたいから」やったのだと僭称するのは傲慢であろうと思います。

あなたは、理由が何であれ、親切なことをしたわけです。もう既に良い人なわけです。それで十分じゃないですか。なぜ、さらに、「自分のためとかではなく他ならぬ人の役に立ちたいがためにやったのだ」と言って自分をより良いものにしようとするのか。

自分のやったことを「人の役に立ちたかったから」と説明するのは、感謝や満足感に加えて尊敬までをも不当な仕方で得ようとする強烈な自己愛ではないかと思います。それはさすがにいただけない。

そんなこと、言わないほうがよほど立派な人間だろうと思うのです。

 

 

  • 結論(だが、私の話に結論などはない!)

 

長々と書きましたが、要するに、「人の役に立ちたい」とか言わなくてよくね?ということです。そこまで言うの傲慢じゃね? ということです。

もし本当に人の役に立ちたくて仕方がないなら、持ってるものすべて捨てたらいいじゃない? ということです。

 

と、言いましたが、たぶん間違ったことも言ってますし、そんなに私の話を真剣に信じる必要はないと思います。

ですが、私は別に「人の役に立ちたいと思うこと」が正義だとは思いませんし、そんなこと考えもしない人がたくさんいてもいいじゃない、と思います。

そんな寛容さというか拘りのなさは少しくらい伝わってくれるといいんじゃないかなぁ、と思います。

いろんな考えがあるものですからね。

 

 

2018.03.14