【復刻】ツライかどうかは君が決めなさい

 

 

こんな形ででも何かやっていると何か、思わぬ形で、自分のほうに返ってくることもあるもので、先日友人から「ブログを読みました」という連絡がきたものだから、こうして再び書こうとしているのである。

 

 

今日は、つらさについて。

 

数年前までの自分自身について、今思うとあの頃は人生がつらかったのだなぁと、そのありふれた物言いを私も自分の過去に適用していいんだなと最近思った。あの頃というのは、不安に駆られて、つまり自信が欲しくてMENSA会員になったりしていた時期のことである。

 

取り立てて何かあったわけではなかった。というより、何もないことのほうが問題であった。時は流れており、20代前半の若者がこなすべきいくつかのイベントを私もやや遅れながらだいたいこなしていた、と思う。大きな失敗も成功もなかった。平凡な大学生をやっていた。成績は良くも悪くもなかった。

ここら辺がよくないのである、私は。なにかに大きく乗り遅れたり、極端に悪い成績を取ったりすることができない。中の下から中の上くらいの間でこなしてしまうのだ。これは、何がいけないのだろう。いけないのだろう、と言ったが、見方によってはこれは素晴らしい能力であり、こういう風にできない人がいるらしいことも私は知っている。そういう人はもしかすると私のように無難にしか過ごせない人のことを羨むのかもしれないが、今日のところはそのような人のそのような気持ちは二重の意味でどうでもいい。第一に、今日はその人たちの気持ちに思いを馳せる日ではない。というより、私がそんなことをする日は永遠に来ないだろう。第二に、無難にこなせる人間と極端になりがちな人間、どちらがツライか、そんな仕方の語りをやめましょう、というのが今日の話なのである。君がどんな人間であれ、君がツラいならツラいのだ。それがツラさなのだ。いちいち、どういう人間のほうが、どういう状況が、どういう行動をしたら、どういう診断が出れば、ツラいのだ、そういう理屈づけるのはやめましょう。君は君に聞いてください。

 

その頃どういう毎日を送っていたのかあまり覚えていない。その当時の生活様式がずっと続くと考えていたわけでないことは確かだし、事実今と同じではなかったはずである。ずっと「これではないのだ」と考えていた。私がこれから先生きていく仕方は、これではないのだ。私が生涯にわたって軸とするような信念は、これではないのだ。そういうわけでいろいろ変化を求めたりもしていたはずである。たとえば映画を見続ける時期を作ったり、将来の夢を設定したり、数日間の断食みたいなことも何度かやった気がする。これらのエピソードはいろいろ自分なりに頑張ったというアピールではない。さっきの何事も無難にこなしていたという話と同じく、私がそこそこ恵まれていた、少なくとも客観的には全く無力というわけではなかったということを話しているのである。「これではないのだ」という思いに捉われながら、部屋にうずくまったまま何もできないでいる人のほうがツラいに決まっている。部屋でじっとしている方が、どれほど不安は純粋で切実で巨大なものになるか。それに比べるとやっぱり私は無難に、ごまかしごまかし不安と付き合っていたわけである。

いやいや、ごまかしごまかし向き合うことしかできなかったということがまさにツラさではなかったろうか。部屋でじっと体操座りしながら純粋で切実で巨大なツラさと向き合えたらどんなに良かったか。そのようにできないことが本当は私のツラさの根源だったのかもしれない。…というような話はキュルケゴール『死に至る病』にあるので、興味があればどうぞ。

 

私は自分のやるべきことを知らなかったし(今も知らないけど)、自分のやりたいことというのもよく分からなかった。人が困るときというのは常にそうなのだが、自分に何が必要なのか分かっていなかった。再び、今も分かっていないのだけど。脱却することが何よりも重要であるように思われた。何から? それが理解されていれば苦労はないのだ。私は愚かだったので自らの愚かさから自力では脱却できなかった。エックハルトによると、人は神の助けなしには弱さを克服できないらしい。それはそうかもしれない、自力で克服できないから弱さなのだ。

 

これらの事情により、私は人生がツラかった。

というのは嘘である。

私は理由もなくツラかった。そんな気がしている。

ツラさに理由がいるのか? そこに常に理由があるものなのか? 人のツラさに常に理由を尋ね、自分のツラさに常に理由を探す人は、このことをかつて真剣に考えたことがあるのか。

 

 

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今も昔と全く同じツラさを感じるときがある。二年ほど前に一度、おや、これは完治したかな、と思った瞬間があったのだが、気のせいだったらしく、もうこれは仕方ない奴だから覇気のないおっさんになるまでは一緒にいてやるよという気持ちでいる。

と、こう書いている今現在は全くツラくないのである。当たり前だが。いまツラかったら、それと向き合うのに精いっぱいでいるはずである。そもそもツラさっていうのは、ファッション感覚の奴でなく真正の奴のことだが、ツラさっていうのは、ツラいのである。そこに喜びを見いだせてしまったらもはやツラくもなんともない。そういうものに本来肯定的な態度を取れるはずがないのである。ツラさの只中にあってなおそのツラいのを愛していたら、それはその人の精神性の高さなどではない、気が狂っているのだ。

だが、それでもなお、しかし、やはり、苦しみ悲しみは、つまりツラさは、人生の華なのだ。私の証言で足りなければ、「先生、坂口安吾君もそう言ってました」の一言を添えさせていただく(「悪妻論」参照)。つまり、ツラさは、ツラいけれども、悪だけれども、しかし絶対的な悪なのではない。悪のイデアなのではない。一面から捉えるとそれはそれは醜悪ないかにもツラい忌避すべき対象なのだが、落ち着いて他の側面からそれを捉えなおしてみるとやはりツラい、あれ、こんなはずでは、もう一度心を落ち着けて改めて向き直してみると、やっぱりツラい…、あれ、おかしいな。

私は真面目でありたく思うので、大事なところでは嘘をつきたくないと考える。そうするとやっぱり、ツラさがツラいのはあなたがそれを一面的にのみ捉えているからで云々…、というようなウソ臭い話はできなくなる。ツラさはツラいよ、ツラさそのものだよ、どう考えても。

しかし、それにも関わらず、やはり、それは人生の華だ。なぜ? そう聞かれても、私は苦し紛れに次のように言うしかない。すなわち、君も生きてみれば判るさ。

 

 

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そいつが人生の華だということを昔の私もなんとなく理解していたような気がする。だから自殺を考えなかったのではないかな。

「人生がツラいと思っていたのなら、なぜ自殺しなかったのか?」

いやいや、逆に、なぜ人生がツラいと自殺するって考えるのか? それとこれとは別の話でしょうが。人生はツラい、理由はない。あの人は自殺しました、そこにも理由はない。それであなたがもやもやしたって、そのもやもやはあなたのメガネが曇っていることが原因なのだ。

ツラいから、終わらせよう。こう考える人は実際にはいない。ツラいんだったら、終わらせたいでしょう。人が考えるのは実際にはこっちである。他人のツラいについて、ああ、ツラいの、じゃあ終わらせたいに決まっているわね。臨床家的態度である。

なぜ、ツラいから終わらせようとはならないのか。世に、ただ悪いだけの純粋な悪・絶対悪というものはないからである。神学的に言うと、神はその人に耐えうるだけの試練しか与えないということらしい(さらにそれが人生の華であるのは、それを神が与えたということからくる喜びだからであるとか、神学的解釈によれば)。

だから、ツラいからって性急に終わらせるだけが正しいわけではない。ツラさは、ツラいので、ところで、ああ、私はいきているなぁ。あるいは、今日は、ツラいので、ところで、いい天気ですね。

 

ツラくて死んでしまった人を否定したいとか、死にたい人を否定したいとか、そういう気持ちはない。

私が否定したいのは、希死願望がなければ人生ツラいなんて嘘にきまってる、と考えている人たちだ。別に取り立てて死にたいわけではない人生だって、ツラいときはツラいんだよ。

こういう人たちに認めてもらいたくて自殺する人もいるんじゃないのか。こういう考えに迎合したくて自傷する人もいるんじゃないのか。

死ななきゃ分かってもらえないなら、死のう。切らなきゃ分かってもらえないなら、とりあえず切っとこう。

 

人がツラいと言ってるのを、否定することはないのである。とりあえずはその人の言っていることを信頼して、ツラいんだなぁと考えたらいい。

だからといって同情や共感をする義務もない。認めないことと、一緒にツラくなることの中間で、平然と話を聞けばよい。話題になっているのは他人のツラさなのであって、自分のではないのだから。

そんな対応をすると「冷たい!」と叱られるかもしれない、と思う人がいるかもしれない。それは叱る方が悪い。平然としているあなたが正しいのである。

そもそも他人に同情を求めるタイプのものはファッションツラいであって真正のツラいでない可能性が高い。だが、このあたりは特に面白い話もないので、もう終わり。

 

 

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ファッション感覚の奴は、真正のツラさではない。それは人格や環境や行為や診断書などで特徴づけられるが、それらの特徴はいずれも公に見られることのできるものだ。そういうものではない。ツラさというのは、君のツラさというのは、君にしか見えない。

だから自分自身に対して誠実であることだ。嘘をつかないことだ。

君が誠実に、あ、ツラいわ、という。そのとき希死願望も診断書もいらない。君はツラいのだ。

 

今日言わんとしていたのは、こういうことである。

こんなことを言わんとするなんて、君は誰かを助けたいのかね? 誰かの力になろうとしているのかね?

正しくしゃべることに比べたら、誰かを助けたり力になったりすることは殆ど善さがない。そして正しいしゃべりは結論など持たないものだから、今日結論らしきものがあることはおかしなことなのである。

どうか結論らしきものに騙されないように注意していただきたい。

 

2018.09.12