【復刻】という

 

 

 

文のなかに「という」がたくさんあるとうっとうしい、という話。

たとえば次の引用っぽい(その実引用でも何でもない)文を見よ。「社会契約というのは、社会の存在と独立に考えられた合理的な個人個人が、社会を形成するという合意をしたことによって社会が成立しているとする考えである。」

まぁそういうことである。愉快でないのだ。

 

推して知られるべし、「という」がどのような種類の文章で繁用されるか。

説明調の、学術的だったりなんかする文章で使われるという感じである。

なぜか。正確さだ、とある学者の言う。違う、と私の言う。正確に表現するためにはまず何より伝えなければならない。文意を伝えるに当たって「という」はあまり有効でない場合が多い。「という」は何かというと文章をぶった切るからだ。ハイここでリセット、ハイ次こっちに向かいます、そういうアナウンスのときにやたらと「という」である。なるほど書き手には便利なようでいて、読者を置き去りにしかねないとは恐ろしい道具である。

 

正確さについては「という」にばかり頼らず、書き手が努力せねばならない。じゃあ正確さじゃなくてなんで「という」が多用されるのか。

文章には表情がある、というとなんだか馬鹿なことを言うみたいだが、ここでは表情と言っておくのがやはり都合がいいのであって、つまり正確さではなく真面目っぽい表情をするのが学会とかそういう文章が出回る界隈での作法なので、みんなしかたなしにというという言っているのだ。

仕方なしにというのは私なりの良心的解釈でありまた自戒であり、文章上で下らん作法のために仕方なしに仏頂面してるんだと我々は自覚しておくのがよい。まぁそういうことなのである。

 

 

2018.11.19