【復刻】擬音語が減ってきた現代思想入門

 

 

 

思想というのはいつの時代も、誰にとっても無関係なものではないけれども、そうだからと言って「すべての人が思想家だ」という結論にデデンっとなるのでもない。

多くの人はやはり思想についてふわぁーっとも理解しないまま、畑の耕し方や株の売り買いの仕方だけ覚えて死んでいく。

 

そして、それでよいのだ。生活と思想とは比べるまでもなく、人は常に生活を大事にして生きていかなければならない。まずこの点で見誤っている思想があるとすれば、それから聞き知るべきことは多くはないだろう。

思想も読書も人生には特になくてはならないものではない。いつでもポイっとできるのでなければ、それで遊んではいけないのです。

「人間は考える葦だ」という有名なセリフがあるが、これは一見すると人間の優越よりも先に劣等を説いているものであることが見て取れる。考えるからこそ、そこに意味がないということを理解するのだ。「本当は意味がないのに考えない存在はそれに気づかない、考える人間だけが意味がないということを正しく見出すのだ」というのは考える葦の負け惜しみだ。考える存在特有の悪い癖が出たやつで、不安で寂しい夜にひとりグシャグシャ殴り書きしたような思考である(夜よりも朝のほうが頭はきちんと働くのだ)。生活があって、そこから抽象的に離れすぎることさえなければ、人生に意味があるのは明らかだ。永遠性も来世もいらない。ただその生活「が」意味である。考える葦はその点をもう分からなくなってしまったから、負け惜しみを言うのである。「人間は考える葦だ」というのは、「考えるから素晴らしい」という結論ではなく、人間は葦でしかない、という認識からもはや逃れられなくなってしまった悲しい自覚を説いているのだ。ここから、パスカルが志したような人間の、考える葦の、逆転勝利がありうるかというと、やはり、ありうるのだろう。が、そのためには宗教的救済が必要であるのは明らかだ(どのように必要か、それは私には分からない)。だから、「考える葦」のセリフを宗教的文脈なしで紹介されてもさっぱり分からなくて当然なのだ。

 

それにもかかわらず、やはり現代思想なるものを説く。

それは時代時代の責任だと言ってもよいし、運命、つまりそうすることに決まっているのだと言ってもよいが、とにかく誰かがそういうことを語り出すと相場が決まっている。誰かがそういうことを考えることになっているのだが、それが誰であるかは誰だってかまわないのだ。アインシュタインがいなければ相対性理論は存在しなかったかというと、その時はその時で別の誰かが同じことを考えていたに決まっているので、必ずしもアインシュタインでなくてもよかった。さらに言えば、アインシュタインが考えたということになっている相対性理論は、別にアインシュタインが考えたわけではない。精神は一般性を原則とする。

 

一般的だというのは、すべての人に原理的には共有されうるということだ。精神的なものは人間すべてに共有されることができる。

だから、私の秘密とでも言うべきものは精神のうちにはない。私とあなた、何が違うのか。その違いは全部精神的でないところの違いなのだ。私個人の思想なんてものはない。思想は個人の所有ではありえないからだ。私個人の主観的感覚というようなものも、私個人のものではない。たとえば私の腹痛であれ、あなたの精神が、私のうちに入ってきてこの同じ立場に立ったら、まさに同じように感覚するので、この感覚というのも精神的な違いというべきではない。精神は無個性であり、元来一つのものだ。世界に精神は一つしかない、それがここにあったりそこにあったりする。こういう思想を私は独魂論と呼んでいる。

そういうことだったら、やはり誰もが同じように思想というものに関わっているのではないか、だからみんながみんな思想家となるのではないか、と思われるかもしれない。そうではない。私が言いたいのは、アインシュタインアインシュタインという個人であって他の誰もが同じように思考したのではないけれども、そういうアインシュタインだって結局はこの匿名の精神であったということだ。だからアインシュタインの考えたことはアインシュタインの考えたことではない。その時代にあった精神の考えたことだ。精神って誰のことだ。それはみんなのことだ。

同じく、一部の人は思想というものに多く親しむだろうし、別の人はそんなもの全く関係ない、ぷいっとよそを向いたまま過ごすであろう、それでも思想は前者のような一部の人だけに関係のあるものではない、と言える。

 

自分には思想なんて関係ありませんやハハハッという人は、何も現代に限らずいつも時代にもいるに違いがないのだ。人々のこういうリアクションそのもののうちに現代性を見出すのは難しい。

現代思想の現代性は、多く熱意のなさのうちに認められる。つまり自分の主張へのコミットメントの弱さ。自分の言っていることに責任を持たないということとは全く違うのだけど、要するに「熱く語らなくても何かを語ることができる」ことを現代という時代は理解した。歴史的に名だたる思想家たちの情熱的な文章、あれだけが思想というものの見本だと長いこと人々は勘違いしていた。ぶわぁっと熱風のように来る熱烈さ、また読者も自然猛烈な関心を以て臨むであろうという予期、これらは思想に必須のものではなかった。それを私たちは認めてもよい時代になった。

 

けれども、熱烈さとはまた違う形で、しかしなお真面目さを以て思想に対して向き合わなければならない。その点に関してはまだ多くの人が腑に落ちていないようだ。熱烈ではないけれども真面目でなければならない。「人間の精神と心情がいまだ健全ならば、真理ということばに胸が高鳴るはずです」(ヘーゲル、エンチクロペディ「論理学」§19)なんていう言葉にもはや共感はしない私たちだが、それは精神が健全でないからではない、むしろ現代においてはこの共感しない精神のあり方のほうが健全だし必然的なのですよヘーゲル先生。ここで、「わたし胸高鳴らないわ、私たぶんそういう高尚な仕事に向いてないんだわ」という風に考えを進めるよりも、「胸高鳴りませんけど、それが私にとっては必然的なので、なぜそうなのかを考えます」とするほうが真面目である。熱烈さの生きていた時代には、熱烈さのおかげで問題にしなくてもよかったのだろうが、今必要なのはこういう真面目さなのだ。むしろこの現代において真理ということばに胸が高鳴っているような人がいたら気味が悪い(いや、いいんですけどね)。少なくともそういう人は、熱心な何者かではあっても、殊この現代を代表する思想の担い手ではなかろう。

 

現代において、思想がポンっとお手軽なものになったかのような風潮がやや、なくはない。

たとえば哲学カフェなんかが流行っている。今の人が実際にどういう姿勢で思想に臨むか正確には知らないが、「まぁ苦労せず面白いこと知れるなら多少かじってやろうか」的な態度では何も得られない。思想は天空である。それに対する誠実さを捨ててまともに思想が存在しえた時代というのは未だかつてないであろう。あくまで人は思想に手を伸ばす側の者であるということを、何がきっかけであれふっと忘れたりしてはならない。ならない、ということはないんだけどね。

また哲学とかを少しよく知っている人たちが、哲学を一般的なものにしようとして、思想を安売りするのもよくない。思想は元来安売りなんてできないものだ。そこでは偽物が売られている。だから安かろう悪かろうだ。だから「なんだ思想なんて大したものじゃないじゃないか」となる。それはあなたが安く買おうとしたからだ。高く買え。また、売るほうも本気で売るつもりなら高く売らないといけない。そうすると買おうという人が全然現れなくなるんじゃないか、という人がいようが、それはこれまで安く売ってきたものを値段だけ上げるような想定をしているからだ。本物に触れんとしている人は今や増えてきている、と思う。

考えるのは、先述のように生活に必要がない。ばかりか、考えるというのはただの苦役でしかない。高い見返りをもらって苦役を売るのだ。なんというサディズム! しかしそうするよりほかはない。多少分かりにくくなっても誠実に語らなければならない。そういう時代なので。そう思う。

 

 

2018.11.25