【復刻】道徳の実践的関心

 

今日のテーマは「道徳の実践的関心」である。真面目。

 

私たちは日常の中で道徳的に悩ましい場面に遭遇する。

既婚者なのにすごくタイプの異性にデートに誘われてしまった、とか、子供が友達のお金を盗んできてしまった、とか、電車の中で明らかにマナーの悪い集団に出くわしてしまった、とか、そんな場合に、私たちの次の行動は道徳的に試されているように感じられる。このような場合の私たちの悩みは、道徳的である。

 

こんなときに、私たちはどうやって正しい行動を選ぶことができるのか。

これが、私が「道徳の実践的関心」と呼んでいる問題だ。

道徳の実践的関心の特徴を記述しておくと、それはもっぱらこの関心が選択の結果としての行動の「道徳的正しさ」の上にのみ注がれているという点に見ることができる。つまり、「どうやって」その行動を導いたか、という部分はこの実践的な関心の対象ではない。同じように、「何を」導いたかも関心事ではない。その結果が「正しいかどうか」、これだけが道徳が実践的に気に掛けることなのである。

 

もちろん、みんな可能な限り「正しい」行動を目指すものだ。ひとの道徳はそういう風にできている。

この点に同意しない人は、おそらく単純に「正しい」の意味を何かと勘違いしているのだろう。何かとはたとえば、校則だったり法律だったり、世間がなんとなく合意して決めていくものだったり、自分のその時の誓いだったりするのだろうが、ともかくこういった「正しさ」そのものではない何かと「正しさ」そのものとを混同しなければ、ひとの道徳は「正しい」行動を志向するということが認められなければならない。

「道徳的に正しい」は「良い」の一つの意味を構成している。

 

さて、この正しい行動を私たちはどうやって選ぶことができるのだろう?

私たちが実践的な場面で気を付けなければいけないことは、意外と姑息なことだったりするのではないか、と思う。

『いつでも言い訳ができるように行動せよ』

これが、私が考える、私たちの実践的な道徳的関心を最も満足させる方法である。

隙を見せなければいいのである。自分の選択に負い目を感じることがなく、たとえ人から何かを言われようと決して自分に恥じることなく言い訳できれば、その選択は道徳的に正しい。

 

ただし、これが最大のポイントでもあるのだが、「誰に言い訳するのか」をあきらかにしなければならない。

私が言い訳しなければならないのは「私自身」であり、しかも私「だけ」である。あなたが言い訳する相手はあなたなのだ。

 

自分自身に言い訳をするというのは、他の誰に対してよりも厳しい審問になる。

私が、素敵な女性に言い寄られて既婚者の身分でありながらデートしちゃったりしたとする。帰路、私はたぶん様々なことを考えるだろう。相手の女性にはいつもお世話になっているからとか、断りづらかったとか、たまには変化を加えることで夫婦間もさらに良くなるだろうとか、様々。

これで、私の心が本当に納得したならばよい。本当に納得したら、私はもう道徳に試されていると感じないだろう。更に「これでよかったのだろうか」と考え続けたりしながら、家で妻にどことなく申し訳なさそうに振る舞ったりしながら、あるいは拗ねさせてしまって誤ったりしながら、その実私の心は全くもって平穏なのである。

自分に言い訳をするとは、このようになるまで自分自身を説き伏せることに他ならない。

ここで多くの人が勘違いをすることがあるのではないかと思う。自分に言い訳をするとは、ただ聞こえのいい理由を心のうちで列挙することなんかとは全く違う。自分への言い訳が成功したかどうかは自分以外に判定する人間はいないが、実際、自分ひとり審判がいれば完全に事足りるのだ。

私がデートに応じた理由をいくつ考えても、胸の奥で自分をごまかそうとしているような欲望を感じたり、不安が消えないならば、私は私自身に言い訳できていないのである。同じように、帰宅後、妻の何も知らない普段通りの様子を見て心が波立つようでは、私は実は私の心にきちんと言い訳できていなかったということになる。

きちんと言い訳できなかったならば、私の「デートに応じた」という選択は道徳的に正しくなかった。私は、行くべきではなかったのだ。このことは「後悔」として残る。後悔は、私の存在が消滅するまで無くならず、また許されもしないことが本質だから、私はこの失敗とずっと生きていくことを余儀なくされる。

 

いつでも言い訳ができるように行動せよ。

こういうことに気を付けながら行動することは、全然汚いことじゃない。

 

 

2018.03.23